本を綴じて表紙をデザインする作業を「装幀」(そうてい)という。それを専門とする人々が装幀家(ブックデザイナー)だ。
装幀家の仕事は表紙のデザインを描くことだけだと私は思っていた。新刊『朝日新聞政治部』を刊行するにあたり、その認識が大きく間違っていることを知った。
装幀家は表紙をデザインするだけではない。文字の書体はどうするのか、どこにどんな材質でどんな色の紙を使うのか(ノンフィクションは白っぽく、文芸はやや黄なりの紙を使うことが多いとか。紙だけでも1000種類ほどあるという)、写真の色合いをどう整えるかといったデザインに関することをすべて担う。
そればかりではない。各章の扉のデザインから本文中に入るチャート図や年表まで、文章以外のありとあらゆることを決め、デザインしていくのである。
原稿を書くのは筆者だが、本を作り上げるのは装幀家といっていい。職人であり、アーティストでもある。
拙著『朝日新聞政治部』の装幀を手掛けていただいたのは、この道30年、日本を代表する装幀家の鈴木成一さん。6月16日にご挨拶の機会をいただき、都内にある鈴木成一デザイン室へお邪魔した。
事務所の書棚には鈴木さんが手掛けた数々の本が並んでいる。出版社もさまざまだ。鈴木さんは装幀の仕事を受けると必ず原稿に目を通し、自らデザインのイメージを作り上げていくという。
講談社の編集者から『朝日新聞政治部』の装幀を鈴木さんに依頼すると聞いた時、私はSAMEJIMA TIMESの連載「新聞記者やめます」の最終回に使った一枚の写真をお届けするようにお願いした。私が国会の傍聴席から本会議場を見下ろす写真である。政治記者時代に撮影したものではなく、退社を決意した後に国会を訪れた際に撮影したものだった。無人の傍聴席の装飾が国会の重々しさを伝えている。本のタイトルにも、私の心象風景にも、ぴったり重なる一枚だと思ったのだ。
講談社の編集者によると、今回のような単行本で筆者が写っている写真を表紙のカバーに使うことはめったいないという。編集者は鈴木さんにお届けするが、この写真を使うのかどうかは鈴木さんに判断を委ねたいというので、私は「もちろんです」と了承した。
鈴木さんはその写真を採用してくれた。感激だった。出来上がった表紙のデザインをみて、感激はさらに膨らんだ。黒と灰色の色合いと本会議場の装飾の重々しさが見事に溶け込んでいる。タイトルの書体も味わいがある。既成の書体ではなく、鈴木さんが特別に作ってくれたそうだ。そして何より右下の朱色が効いている。
表紙のカバーをめくると、赤い線で描かれた新聞一面のようなデザインが出てくる。朝日新聞の一面レイアウトとそっくりだ。異なるのは、右上の「朝日新聞」の題字の部分をはじめ、赤い線以外は空白になっていること。鈴木さんがここに込めた意味に私は思いを巡らし、これはアートだと痛烈に思ったのだった。
編集者と一緒に訪れた鈴木さんの事務所で装幀をめぐりあれこれ話したひとときは楽しかった。
鈴木さんと一緒に私たちを迎えてくれたデザイン室スタッフの大口典子さんは『朝日新聞政治部』の仕事を最後に10年務めた鈴木さんのデザイン室を卒業してデザイナーとして独立するという。私にとってこの本は27年間の新聞記者人生に区切りをつけ、新しい一歩を踏み出す節目の一冊。大口さんにとっても新しい人生へ踏み出す節目の一冊となったことは、ほんとうにうれしかった。
本を執筆することも装幀することも表現活動である。何かを表現することは楽しいし、何かを表現している人と話すことも楽しい。表現する喜びを忘れて人事や社内調整に明け暮れる朝日新聞社のかつての同僚たちの姿を思い浮かべながら、私は表現する世界にとどまり、本当に幸せだと思ったのだった。
電子書籍で本を読む人も増えてきた。そのなかでリアルの本を購入する人は、大切に読みたい、何度も読み返したい、手元に置いておきたいという、とてもありがたい読者の方々である。デジタル時代が本格到来し、紙の書物は高級品になった。文字データだけならデジタル空間で十分。そのなかであえて紙の本を購入してくれる方々の期待にこたえるため、装幀という仕事はますます重要さを増すだろう。それに渾身の思いで向き合うプロ魂と接し、すがすがしい思いで鈴木成一デザイン室を後にした。