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新聞記者やめます(完)きょう退社!【なぜ私は新聞記者になったのか〜「記者は他人の人生を書く。主役になれない」と問われて】

いよいよ新聞社を退職する日がやってきました。

2月末にスタートした連載「新聞記者やめます」で「なぜ新聞記者をやめるのか」をひたすら書き続けてきた気がします。最終回の今日は原点に立ち返り「なぜ新聞記者になったのか」を綴りたいと思います。

私は1994年に京都大学法学部を卒業し、朝日新聞社に入社しました。バブル経済は崩壊していたものの、なお余韻が残る時代でした。数年後に襲ってくる就職氷河期の「失われた世代」や現在の「コロナ禍世代」と比べれば、気楽な就職活動の時代だったと思います。

当時の京大生のご多分に漏れず、私は充実とは程遠い学生生活を送っていました。就職活動中の1993年は自民党が下野し細川連立内閣が発足した戦後政治史の重要な年です。同年7月の衆議院選挙で京大のある京都1区(当時は中選挙区制)からは、のちに民主党代表となる前原誠司氏が日本新党から初当選しました。

でも、私にはこの衆議院選挙の記憶がないのです。政治のことにも、世の中のことにも、関心が薄かったのです。自分のことで精一杯でした。今の若者を「政治に関心がない」と批判する資格はありません。

もちろん、新聞など購読していませんでした。母子家庭で仕送りがなく、奨学金とアルバイト代で辛うじて学生生活を送っていたというのは言い訳です。トイレも風呂も洗面所もない「離れ」に下宿した入学当初はたしかに厳しい生活でしたが、3〜4年生にもなると塾講師のアルバイトで稼ぎ、自分の車まで手に入れていましたから、ひとえに「学び」に不熱心だったというほかありません。その気になれば大学の図書館で新聞くらい読めたはずですから、やはり「関心がなかった」というのが実態だと思います。

朝日新聞社の採用試験を受けることになったのも、お恥ずかしい話ですが、彼女が新聞社志望で、募集要項を2通もらってきたのがきっかけでした。今となってはそこに何を書き込んだのかも覚えていません。朝日新聞といえば「リベラル」「左派」というくらいの印象しかありませんでした。ただ、これを境に「そろそろ就職活動しなければ」と焦り始めたのを覚えています。

親しい友人たちが国家公務員Ⅰ種試験(法律職)を目指し勉強していたので、遅らせばながらその輪に入れてもらいました。私はこの手の「受験競争」は得意で、過去問を2~3カ月ひたすら解いて挑んだ筆記試験に合格し、友人たちを驚かせました。その後、霞が関のキャリア官僚たちを「訪問」しましたが、自分たちの省庁の自慢話をするばかりで失望しました。

そこでさまざまな業種から名前を知っている企業をひとつずつピックアップして訪問することにしたのです。銀行、生保、商社……。朝日新聞社はそのひとつでした。「名前を知っている企業」として「報道機関」の中からたまたまひとつ選んだという認識でした。恥ずかしいほどに意識の低い学生だったのです。

私は当意即妙に答える「面接」に自信がありました(政治記者になった後も記者会見やインタビューで二の矢三の矢を放って政治家を困らせるのが好きでした)。それが功を奏したのか、朝日新聞社を含め複数の企業から内定をいただきました。

私は朝日新聞の東京本社や京都支局に見学にうかがい、何人かの新聞記者に会いましたが、残念なことに魅力的な人とは出会えませんでした。「キャリア官僚」と同じ匂いを感じました。

私は朝日新聞社の内定を断りました。

代わりに選んだのは、新日鉄(現・日本製鉄)でした。この会社は会う人会う人が実に魅力的でした。私は彼らに魅せられて新日鉄という会社にのめり込んでいきました。

製鉄所も見学させていただきました。「鉄は国家なり」と熱く語る人、ヒッタイト以来の鉄の歴史を詳細に紐解く人、鉄鋼労働者が暮らす宿舎の四畳半の部屋に案内し「君がこの会社に入って最初にする仕事はこの宿舎が煙草の不始末で火事にならないようにすることだ」と説く人…。私の前に次々に現れる「鉄鋼マン」は誰もが情熱的な人たちで「キャリア官僚」や「新聞記者」より生き生きしているように見えました(私が退職届を出した今年2月、当時お会いした方が日本製鉄役員として活躍する姿をニュースで拝見し、感慨深いものがありました)。

新日鉄のなかでも私を気に入ってくれたのが、Sさんでした。大阪・梅田の高層ビルに入る店に何度となく呼び出され「君と一緒に仕事をしたい」と口説かれました。Sさんはパリッとしたスーツに身を固め、紳士的で、一介の学生だった私には輝いてみえました。私は新日鉄へ入社する決意をSさんに告げたのです。

迷走はここから始まりました。私は世の中のことをあまりに知りませんでした。恥ずかしいほど無知でした。将来の具体的な設計図もまったく持ち合わせていませんでした。鉄鋼マンたちはたしかに魅力的でした。私は「人の魅力」で新日鉄を選んだのでした。ところが、自分がいざ「鉄鋼マン」になると思うと、「鉄は国家なり」と熱く語る人やヒッタイト以来の鉄の歴史を詳細に紐解く人のように、「鉄」に人生を捧げる覚悟が湧いてこなかったのです。自分の将来像がまったく見えてこなかったのです。

一度決断しないと本心に気づかないというのは愚かなことです。決断を取り消すことでいかに多くの方にご迷惑がかかるかという想像力にも欠けていました。就職活動の季節はとっくに過ぎ去っていました。それでも私は居ても立っても居られず、いったん内定を断った会社に次々と「もういちど考え直していいですか」と問い合わせたのでした。

もちろん「採用はもう終わりました」という返事ばかりでした。そのなかで唯一、「今からでも来て良いよ」と答えてくれたのが、朝日新聞社だったのです。当時の採用担当者から「君はちょっと変わっているし、新聞のことをあまりに知らなさすぎるから、新聞記者になってうまくいくかわからないけれど、来たいのなら、来てもいいよ」と言われ、負けん気に火がついたのを覚えています。



私は大阪・梅田で新日鉄のSさんに会い、内定をお断りしました。「どこにいくのか」と問われ、「新聞記者になります」と答えました。Sさんは納得しませんでした。「なぜ新聞記者なのか」と迫ってきます。私は新聞記者という仕事をろくに知らないのに「いろんな人の人生を描きたいからです」と魅力を欠く返答をしました。Sさんは断固として譲らず、熱く語りました。

「新聞記者は他人の人生を書く。所詮は他人の人生だ。主役にはなれない。我々は自分自身の人生の主役になる。新日鉄に入って一緒に主役になろう」

とても熱い言葉でした。心が動きそうになりました。私はこののち、数多くの政治家やキャリア官僚を取材することになりますが、このときのSさんほど迫力のある言葉にいまだに出会ったことがありません。いわんや、朝日新聞社の上司からこれほど迫力ある説得を受けたことはありません。

言葉というものは不思議なものです。Sさんの言葉があまりに情熱的であったからこそ、私はそれでも動かない自分の心の奥底に気づいたのでした。私が抱いていた違和感は「鉄」に対するものではなかったのです。それは「ビジネス」に対するものでした。私はビジネスの世界に身を投じること自体への抵抗が心の奥底に強く横たわっていることを、このときのSさんの言葉に促されて初めて自覚したのです。

なぜ新聞記者なのかと繰り返すSさんに、私がとっさに吐いた言葉は「ビジネスではなく、政治に関心があるからです」でした。

政治家になろうと考えたことはありませんでした。先に述べたとおり、政治にさほど関心もありませんでした。政治記事など読んだこともなかったのです。なのに、なぜ、「政治に関心がある」という言葉が出てきたのか。当時は自分でもよくわかりませんでした。

50歳を前に振り返ると、一介の学生が働き盛りの鉄鋼マンに「なぜ新聞記者なのか」と迫られ、「ビジネス」への対抗軸として絞り出した答えが「政治」だったのだと思います。もちろん「ビジネス」を否定しているわけではありません。私自身の志向がビジネスに向かっていないということです。多くの書物を読み勉学を重ねた学生ならば「学問」「文化」「芸術」などとといった、もう少し気の利いた言葉が浮かんだのかもしれないのですが、当時の私はあまりにも無知で無学でした。「政治」という言葉しか持ち合わせていなかったのでしょう。

ところが、私の口から飛び出した「政治」という言葉を耳にして、Sさんはついに黙ったのでした。ほどなくして「残念だ」とだけ語ったのです。Sさんとの別れでした。Sさんにとって「政治」とは、どんな意味を持つ言葉だったのか。当時の私には想像すらできませんでした。

新聞記者になる目前にSさんから投げかけられた「なぜ新聞記者なのか」という問いを、私はその後の新聞記者人生で絶えず自問自答してきました。「両論併記」で「客観中立」を装う新聞記事を見るたびに「新聞記者は主役にはなれない」と言い切ったSさんの言葉を思い出しました。そしてSさんに胸を張って「主役になりましたよ」と言える日が来ることを志して、27年間、新聞記者を続けてきました。

振り返れば、山あり谷あり波乱万丈の新聞記者人生でした。新聞協会賞の受賞や抜擢人事などの「栄光」も、停職二週間の処分や更迭人事などの「挫折」も経験しました。それでもSさんと再会したら「君は主役になったよ」と認めてくれる自信はありません。「所詮は新聞という小さな世界の内輪の話だよ」と言われるかもしれません。

鉄も新聞も斜陽と呼ばれて久しい業界です。27年前の私が進路を決めるにあたり鉄と新聞で揺れたのは果たして偶然だったのか。私がSさんにとっさに吐いた言葉を追うように「政治記者」となり多くの政治家とかかわるようになったのは運命だったか。それらの疑問は未解決のまま、私は新聞社を去ります。

けれども、新聞記者になる前の若かりし日の私にSさんが気づかせてくれたこと〜私の心の奥底に横たわる思いは「ビジネス」ではなく「社会的な何か」にあること〜は、明日からひとりのジャーナリストとして独立し、小さなメディア「SAMEJIMA TIMES」を育んでいく立場として、決して失うことのない核心であることをここに宣言し、連載「新聞記者やめます」の最終回といたします。(完)


2021年5月31日 SAMEJIMA TIMES (サメタイ)主筆 鮫島浩




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