新聞の最大の責務は「権力監視」である。私がそう主張すると、必ず「違う。新聞の役割は『事実』を伝えることだ」と反論が殺到する。彼らは「新聞は事実を捻じ曲げて権力を批判している。偏向報道だ」という。
新聞が「事実」を伝えるのは当たり前だ。「事実」に基づいて権力を批判すべきであることは論を俟たない。事実を捻じ曲げて批判してはいけないことは火を見るより明らかだ。結局は、批判内容が「事実に基づくか否か」という問題にたどりつく。
ここで問われるのは、そもそも「事実とは何か」という問題だ。それについて根本的な認識を共有できていないから不毛な議論が繰り返されるのであろう。
きょうは「事実とは何か」という問いを突き詰めたい。
意外に多いのは「政府発表=事実」と思っている人々である。安倍政権下で政府発表の統計に不正があったり、公文書が改竄されたり、国会答弁が虚偽だったりすることがたて続けに発覚してもなお「政府発表=事実」と信じ込んでいる人がいるとしたら、もはやそれは「政府信者」というほかなかろう。学校や先生から「求められる正解」をみつける偏差値教育に染まった人々が大人になって「学校」や「先生」に代わる存在として「政府」を絶対視しているのかもしれない。
現在の日本政府に限らず、古今東西、国家権力は数々のウソを発表してきた。戦時中の政府発表にはウソが溢れている。「国家権力はウソをつく」「国家権力は信用できない」ことを前提に権力者の行為を憲法で縛るーーそれが人類が数々の苦難の歴史を経て勝ち得た「立憲主義」という考え方である。政府発表が事実か否かをチェックする(つまり「権力を監視」する)のがジャーナリズムの大きな責務だ。これなしには民主政治は成り立たない。すべては「政府発表=事実とは限らない」と疑うことからはじまるのだ。
次に「政治家はウソをついても警察や検察などの捜査機関が立件したことは事実」と思っている人も少なくない。これも大間違いだ。検察や検察は国家権力の一部である。いや、国家権力の象徴だ。これまで数々の違法捜査や証拠のでっち上げが発覚してきた。選挙の洗礼を受ける政治家以上に「暴走」する恐れがあるのだ。警察や検察が「逮捕」しても「推定無罪」の原則を維持すべきだというのは、数々の過ちの歴史から人類が学んだ叡智なのである。
裁判の「有罪」はどうか。これも同じだ。所詮は人間が人間を裁くのである。歴史上、数々の「冤罪」が長い歳月を経て明らかになったことは枚挙にいとまがない。警察や検察の密室の捜査よりは裁判官や公開法廷の目が入る分、「過ち」の可能性は低いが、「判決=事実」と絶対視することはできないのだ。
大学教授や医師ら専門家の見解はどうか。これも同じである。私たちはコロナ禍で専門家たちの言葉がいかに説得力がないかを目の当たりにした。当初のPCR検査抑制論はいったい何だったのか。さらにいえば10年前の福島原発事故は何だったのか。原子力の専門家は原発は安全だと言っていたではないか。
最近では「変異株は若者も重症化の恐れがある」と強調する専門家に私は違和感を覚えている。従来株で重症化に至った若者は稀少だった。変異株で重症化する若者が従来株より増えたとしても、若者が重症化する確率は極めて低い現実に変わりはない。それを「若者も重症化する恐れがある」と声高に叫ぶのは科学的態度であろうか。若者を脅して自粛させるという魂胆が丸見えではないか。高齢者のコロナ対策に対する不満を若者に振り向ける政治的思惑さえ感じる。
そもそもなぜ「年齢」ばかりで重症化率を分析するのか。例えば「喫煙」や「薬の服用」の有無による重症化率の違いが分析され、大きく報道されないのはなぜだろう。煙草メーカーや製薬会社の政治力が強いからか。「年齢」だけに着目し「若者」を狙い撃ちするコロナ対策は科学的といえるのか。
すこし脱線したが、それぞれの分野の専門家の知識には敬意を払う必要があっても「専門家の見解=事実」とは限らないのである。
こうしてみると「新聞は事実を伝えるべきだ」というときの「事実」とは何か、丁寧に論じる必要があることに気づく。その事実とは「政府が『事実』と認定して発表したこと」「警察が『事実』として認定して逮捕したこと」「裁判所が『事実』と認定して判決を下したこと」「専門家が『事実』と認定して発言したこと」に過ぎないのである。「事実」と認定した当事者に対する信頼の度合いによって「事実」の「確かさ」に軽重はあるものの、「絶対に間違いない事実」などほとんど存在しないのだ。すべては誰かの「認定」に過ぎない。
日本で「事実」と認定されたことが中国で否定されることはあるし、昭和に「事実」と認定されたことが令和に否定されることもある。人類は毎日のように「事実の認定」を積み重ね、「認定された事実」をつねに再点検し、矛盾が生じたときは「事実」を変更して「新しい事実」を認定して上書きしてきたのである。さまざまな人々が「これが事実だ」と主張して広く議論し、「より確からしいこと」をつねに更新しつづけてきたのだ。今の「事実認定」は将来、くつがえる可能性は十分にある。
新聞が「絶対に確かな事実」だけを報じる存在としたら、ほとんどの新聞記事は成立しない。「新聞社が『これは事実である確率が高い』と主体的に判断した出来事」が並んでいるのが新聞というものなのである。だから本来は「政府は〜と発表したが、○○新聞は独自の取材に基づいて事実ではないと判断した」「裁判所は〜と有罪判決を下したが、○○新聞の取材では疑問の余地がある」という記事がもっとあってしかるべきなのだ。「事実と認定した主体(=新聞)」をあいまいにして「客観中立」を装う記事ほど信用できないものはないと私は思う。それは「事実認定」する者の「責任」を回避しているだけだ。
そこで重要になるのは、報道が一色に染まらないことである。新聞やテレビ、雑誌、ネット媒体などがそれぞれ主体的に「事実認定」をし、読者がそのなかから最も説得力がある「事実認定」を選択すべきなのだ。そうして「何が事実か」を多方面から検証し、「より確からしいこと」を見つける営為を継続していくのがジャーナリズムの役割なのである。だからこそ、メディアの「表現の自由」や「主体性」「多様性」は絶対に必要なのだ。
新聞が報じる「事実」とは何か。それは新聞社が「事実と認定したこと」に過ぎない。それでよい。ただし「事実と認定した理由」を明確に示さなければならない。その理由が「政府が発表したから」「警察が逮捕したから」「裁判所の判決だから」ではいけない。それはただの「垂れ流し」である。それぞれの新聞があくまでも主体的に判断すべきなのだ。判断を間違えることもあろう。そのときは率直に間違いを認めて訂正すればよい。それを恐れていては「垂れ流し」に成り下がる。「事実認定」の点検を不断につづけていくのが人類の歴史なのだ。
コロナ禍で「科学」の重要性が叫ばれている。もちろん「科学」は重要だ。しかし「データ」や「数字」は決して「絶対的な事実」ではない。どんなに検証を重ねたところで、それは「確からしさ」を増すだけで「絶対的な事実」にはなり得ない。科学はすべてを疑うことからはじまる。何かを絶対視する姿勢こそ「非科学的」なのだ。
ガリレオ・ガリレイが地動説を唱えて有罪判決を受けたのは、たかだか400年ほど前のことである。人間社会が「事実」と信じることは時代とともに移り変わっていく。何が事実かをつねに問い続けることこそ、ほんとうの意味での科学である。そして国家権力が「事実」として発表したことを疑い続けること〜すなわち「権力監視」〜こそが、ジャーナリズムの最大の責務である。