今年も早12月、1年の終わりが近づいてきました。
子どものころは、大人になることが待ち遠しくて、勉強が嫌で、1年がとても長く感じていたように思います。今は、逆にあの頃に戻れたらと思いながら、1年がとても短く感じるようになりました。読者の皆さまはどうでしょうか。
今回は、「贈り物」というテーマが中心ですが、話があちこちに飛びます。それだけ、私たちは、あれやこれやの広い世界で結ばれながら生きているということで、お付き合いしていただければ、幸いです。
12月といえば、キリスト教ではない私でも、キリストの誕生を祝う日クリスマスが思い浮かびます。「クリスマスそのものが神から与えられた贈り物」「愛の日」で、‘プレゼント’交換は愛の交換に欠かせない儀式のようにも感じます。
他の宗教でも豪華な行事があるにもかかわらず、クリスマスが一大イベントとして日本に定着しているのは、日本の西洋化のための一つの政策や商業的な目的のためだったのでは?と日本の政治を見ていると思ってしまいます。
10月や11月には、ヒンドゥー教の世界では、ヒンドゥー暦のカールッティカ月の新月の夜の5日間、ヒンドゥー教の最大の「光のお祭り」ディワリがあります。これは「神」を祝うというより、「闇(悪)に打ち勝つ光(善)を祝う」という意味だそうです。
家や町がろうそくの光やカラフルな花飾り、花火が上がりキラキラと輝きを放つお祭りで、インド、シンガポール、マレーシアなどアジアの国々で祝日になります。伝統的な料理やお菓子を食べて祝い、一般的に‘プレゼント’の交換はクリスマスのようには、ないようです。
ディワリのことをすでにご存じの方もいるかもしれませんが、私は豪州に来るまでディワリを知らず、豪州のニュースで知りました。どれだけ狭い世界で生きてきたのか、と自分の無知に驚きました。そして、なぜ同じアジアの国々の盛大な文化やイベントがクリスマスやハロウィンのように日本に広がっていないのか、ディワリや同じアジアの国々により親しみを覚えるようになりました。
年末の贈り物と言えば、お歳暮もありますが、もともとは祖先の霊にお供え物をすることから、上司や取引先への‘プレゼント’へと変化したようです。
日本語で言う‘贈り物’ですが、日本語でも‘プレゼント’または‘ギフト’という英語がカタカナ日本語になり、よく使われています。その違いをさして考えることもなく使っていましたが、ある時、豪州でギフティド・チルドレン(Gifted Children)という言葉をきいて、この違いに気づくことになりました。特別な才能を贈り物‘ギフト’として与えられた子どもたちのことでした。
この子どもたちは、そのギフトを伸ばして生かすために、特別な教育プログラムを受けることができます。
贈り物には‘ギフトとプレゼント’がありますが、英英辞典によると‘ギフト’とは、見返りを求めずに与えるもので、‘プレゼント’とは、ある行為・ものに対して感謝の気持ちを表したり、見返りを期待したり、贈られるものという違いがあります。‘ギフトとプレゼント’気持ちは、混ざることもあるでしょう。
私が育った家庭では、誕生日やクリスマスに贈り物をもらったり、特別に祝ったりということがありませんでした。近所の幼馴染の家では、その日にパーティーをしたり、プレゼントがもらえたりしているのに、なぜだろうという思いがありました。でも、思い返すとそれは冷たい家庭だということではなく、祖父母も同居する、贅沢はしなくてもささやかな温かい場所でした。ただ西洋化していない昔ながらの日本の家庭だったのだと思うようになりました。
先週、贈り物が玄関先に届いていました。これは私にとっては‘ギフト’でもあり‘プレゼント’でもあります。新しく隣に引っ越してきたカップルやご近所さんと、「もうすぐ贈られてくるよね」と数か月前から話題にしていたものです(下の写真)。
ゴミ箱と堆肥化バック
これは、地域の役所から贈られてきた卓上ミニゴミ箱(kitchen benchtop)で、食品廃棄物(生ごみ・パン・シリアル・米・麺類・野菜果物・肉魚と骨・乳製品・卵と殻など)を入れるものです。前の自分ならきっと、この贈り物には、何も感じないか、煩わしく感じたかもしれません。
でも今はこの小さなゴミ箱が特別な贈り物に感じます。周囲にいる「環境は友達(environmentally friendly」という自然好きの人々・メディア・役所広報で目にする環境に優しい生活が、オーストラリアの特に都市部で一つの流行・トレンドになっていることの影響も大きいでしょう。この食品廃棄物リサイクル活動は、FOGO/有機食品有機ガーデン/Food Organics Garden Organics と呼ばれています。冒頭の写真は、卓上ミニゴミ箱の中に入っていたFOGOのパンフレットです。
また、豪州の首都キャンベラでは健康な環境をえる権利の法案が初めて提出され注目されています。健康的な環境には「健全な生物多様性と生態系と共に、きれいな空気、安全な気候、安全な水へのアクセス、健康的で持続可能な方法で生産された食品の入手」が含まれて、将来を危惧する若者たちの支持があります。
ゴミの話に戻ると、育てられ方が影響しているのか、買った食品を使い切って、出来るだけゴミを出したくない、野菜くずは、大まかだけど、出来るだけ小さく切って、土に埋める、という緩いですが、こだわりをもってしまっている私にとって、卓上ミニゴミ箱は気持ちを楽にしてくれるものです。そして、地域のみんなで取り組んでいるという、つながり感も心地よいものです。
豪州では、一般的に家庭や集合住宅には赤(一般的なゴミ)黄色(リサイクルゴミ)緑(植物用)の大きなゴミ箱が役所から配られます(下の写真です)。リサイクルゴミや植物は袋に入れなくてよいので、袋ゴミを削減できます。
私の地域ではこの大きなゴミ箱は無料でした。日本での食品廃棄物の扱い方は、知らないのですが、豪州では卓上ミニゴミ箱に、堆肥化できるゴミ袋(これも無料でした)を入れて、食品廃棄物を入れて、緑のゴミ箱に捨てることが広まっています。
なぜこれが特別かというと、京都大学名誉教授・谷誠さんがSamejima Timesに特別寄稿した『矛盾の水害対策』 で記されていた政治に加えて「事業者、住民等の利害関係者、さらには河川工学関係者以外の生態学、地球科学、環境科学、社会学、経済学、哲学など」影響をおよぼす多角的な見方が必要だということに通じるものがあると思いました。
1 環境…食品廃棄物は、ゴミの約50%前後を占めてそれを処理せず埋めると、メタンガスという二酸化炭素より約25倍も地球温暖化に影響を与えるガスを発生するので、これを減少させることができます。
2 農業(上の全ての要素)…広大な豪州の農場では、実り多い健康な野菜果物を育てるための有機堆肥や土壌改良材が不足していますが、食品廃棄物を利用して、これらを国内でつくることができます。無添加やホルモン剤不使用など食の安全のこだわりを感じます。また、NSW州では農業学校がトップの高校として選ばれていて、このことは、北半球の多くの国々から遠く離れて豪州で生き残るために、農業・食の大切さが示されているのだと思います。
3 経済・ビジネス…地域で食品廃棄物から堆肥・土壌改良材・クリーンエネルギー電気発電のビジネス・雇用が生まれます。
4 つくる人々や環境への感謝(哲学・社会学)…ハンバーガー1個を捨てると90分のシャワーの水を無駄にすることと同じだそうです。少しの量でも小麦・肉・野菜を育て→加工し→輸送し→調理するという、手間暇をかけて多くの人々の努力で食することができているということを、便利になった社会で、多くの人々が気に掛けなくなっている、といわれています。
また推進者の方は、スーパーマーケットの利便性が買い物客の農産物の価値を下げることにつながっていると語っていました。「私たちは24時間365日利用できる店を持っていますが、その食品を生産するのにどれくらいのエネルギー、労働力、燃料、その他すべての組み込みコストがかかるかについてはあまり考えていません」「私たちは食に対する意識を失っています。」と訴えていました。
5 世界の不公平に目を向ける(哲学・社会学)…アフリカなど発展途上国では、深刻な食糧不足・安い労働力・安価に売られる産物・資源による搾取が問題ですが、対照的に先進国では飽食と大量の食品廃棄物が問題だという、この長く続く不公平問題を解決する活動に繋がると思います。
日本では「いただきます」「ご馳走さま」という食べ物や食事づくりに関わる人々に、食事の前後に感謝し大切にするという世界から尊ばれる食文化・習慣があります。これも日本の先人が生んで、長く受け継がれてきた‘ギフト’だと思います。
そして、私が育った場所を今振り返るとたくさんの‘ギフト’があったことに、原稿の内容を考えながら、今更ですが気づきました。
田んぼや畑があちこちに広がり、養鶏や養豚場もある山里でした。農業には関わらなくても、そこで生産し働く人々を日々目にし、地域で採れた野菜・果物・卵・山菜・シイタケ・魚が中心のシンプルで安いけれど、家族がつくってくれる、おいしいご飯でした。毎日口にすることができた‘ギフト’でした。
そして、豪州で周囲の人々の影響で植物の世話をするようになって、食べられる野菜や果物を育てる大変さ・難しさ・かかる手間暇が、実感として分かるようになってきたのも、‘ギフト’でした。
若い頃は田舎で何もないと思っていた場所は、古い習慣が残る豊かな自然に囲まれて、そこで農業を営み、食を分け合い、助け合う人々が暮らす地域でした。「もったいない」という言葉をよく耳にする、土地で育つことができたことも、‘ギフト’でした。
毎朝登校する小学生の交通指導員をボランティアでする人々。地域の障碍者の人々に日々声をかける人々。弱い立場の人々に無償で親切にする人々を目にしながら育ったことも‘ギフト’ でした。
クリスマスや誕生日パーティーやプレゼントは無くても、家族は必要なものや欲しいものを揃えてくれ、ささやかな生活や幸せを与えてくれました。不自由がなかったとはいえないけれど、好きなようにやりたいことをできる限り許してくれました。ふり返ると、それも見返りを求めない‘ギフト’でした。
祖母(母の義理母)が、「母が二十歳過ぎで懐妊し、『若すぎるから産まない』と言ったけど『せっかく授かったんだから』と、ばあちゃんが産むように頼んだんで」という打ち明け話を幼いころにされて、ずっと頭の片隅に残っていました。とにかく産んでくれたことが、何より一番の‘ギフト’だったことが、やっと最近分かりました。
ここ数年の出来事と真実を伝え合うことができるSNSの広がりで、現実と多くの人々が信じてきた価値観や正しいと思うことに大きな隔たりがあることが、明らかになってきました。利権や既得損益という見返りを与え合う同士でプレゼントし合う世界で生きてきた人々が行うプレゼント政治が横行し続いてきたことも明らかになっています。この政治が、人々の生活に大きな悪影響を与えていることも明らかになってきました。
見返りを求めない‘ギフト’を与え合ってきた世界で生きてきた人々が導くギフト政治。それは、泉房穂前市長やサメタイの訴える「人々を救う政治」だと思います。この勢いに乗り加速させて、日本を変えて、世界の方程式も変えることができるパワーがあると感じます。
苦しむ人々のための政治を実現する勢力として闘う人々、泉房穂前明石市長、鮫島さん、政権交代を目指す、野党の政治家の方々などの共通点は、困難で辛い時を乗り越えてきた経験「闇(悪)に打ち勝つ光(善)」という‘ギフト’をもつ共通点があるのではないでしょうか。
こうして、書く機会を与えていただいているSamejimaTimesとの出会い‘ギフト’がなければ、私は、ここで書いたたくさん与えられていた‘ギフト’に気づかなかったでしょう。
多くの人々との出会い、関わった時間の長さにかかわらず、さまざまなことを気づかせてくれた人々。
原稿を書く度に、新しい発見や自分が思っていたことはこうなんだ、という何かしら新しい気づきがあります。それは、サメタイの読者のみなさん、鮫島さん、筆者同盟の方々やその記事・コラム・コメントでの交流の中でも生まれています。
お金よりも尊い、またはお金では買えない‘ギフト’。
全てのギフトに心から感謝していきたいと思います。
参照
今滝 美紀(Miki Imataki) オーストラリア在住。 シドニー大学教育学修士、シドニー工科大学外国語教授過程終了。中学校保健体育教員、小学校教員、日本語教師等を経て早期退職。ジェネレーションX. 誰もがもっと楽しく生きやすい社会になるはず。オーストラリアから政治やあれこれを雑多にお届けします。写真は、ホームステイ先のグレート オーストラリアン湾の沖合で釣りをした思い出です。