政治を斬る!

こちらアイスランド(195)世界に類を見ないグルメ大国日本を杞憂する〜小倉悠加

毎回実家近くのスーパーへ行く度に圧倒される。いや、実家近くだけでなく、出先のあちこちのスーパー、駅ビルに入ってる小売店、コンビニ等、ありとあらゆる店舗に入る度に驚くことになる。

需要と供給の基本は理解している。誰かが欲しがるから、誰かがそれを提供してくれる。

でも、それだけでこれほどのことは出来ないだろうとも思う。だって外国では、特に私が住んでいるアイスランドという国ではそういう方向になっていないので。

日本のスーパーの品揃えのきめ細かさが凄い。凄いと一言に書くけど、いい意味でも、少し疑問に思っているという意味でもある。

誰の何のどのような需要にも応えようとする努力もあるだろう。大手の有名な製品を万人が好むとは限らないので、その隙間の要望に応えることで顧客を得たいという考えもあるだろう。

なんだか知らないが、ありとあらゆる需要に対して供給してくれる。

例えば、実家から徒歩3分のところにあるスーパーだ。2年前までは屋根から雨漏りがして、店舗内のフロアがガタガタだった田舎っぽい風情の時代でも、そこそこの品揃えだった。

改築後はピッカピカの都会的なスーパーに変身し、店内の様子から品揃えまで高級スーパーに迫る勢いだ。

例えば豆腐を例にとってみたい。

手八丁口八丁というか、豆腐という二文字で片付く食品にはありとあらゆる種類が用意されている。

時々安売りに出てくるニコイチ120円のようなものもあれば、一丁300円以上する高級な豆腐もある。一丁を四分割したものやキューブ大の小さな豆腐が1ダース連なっているものも。形が丸いざる豆腐、豆の種類で分ける青豆豆腐、黒豆豆腐、有機大豆使用など、また天然にがり使用、XXの天然水、XXの名店等、どんだけあんの?というくらい多い。

豆腐はまぁ誰もがいろんな食べ方をするし、種類も絹、木綿、焼き豆腐と分かれて、用途や舌触りなどの選択種があるのは悪く無い。

形が豆腐というだけで中身は大豆ではなかったりするが、胡麻豆腐や卵豆腐なども豆腐ファミリーの仲間の場所に置いてある。

豆腐は特殊な例かもしれないが、豆腐ファミリーだけで2-3メートルもあろうかという冷蔵陳列棚を満たすことができる。そして豆腐の横にはほとんど必ず納豆がまた結構な種類をもって売り場面積を占拠する。

日本人としてはごく見慣れた日常の風景だ。私も見慣れていたはずだ。けれど、今はその喜ばしい異常さに歓喜を抑えられない。

住宅地しか周囲にない郊外のスーパーでも、これだけの種類が置いてあるのだ。

菓子類の美しいパッケージも目を引く。「それが日本の文化だから」という一言で片付けることもできるかもしれないけれど、企業努力なのか、日本人全般の感性なのか、とにかく何だかすごく美しい。

デパ地下となるとまた別の凄みがある。実家にいない時の私は横浜駅をよく利用する。近年地下街の大工事があり、それまで地下の店舗がなかった場所に食品を扱う店舗やレストランが大量に現れた。

惣菜や弁当売り場のこれまた美しいこと!種類も多いし、何よりも全部美味しそうだ。実際何品か買ってみたけれど、全部それぞれ美味しく調理してあった。見た目だけでまぁまぁと思うものはあったけれど、海外に出ればグルメだと言われるに違いない。

現在の私には基準が二つあるようだ。ひとつは生粋の日本人としての味覚。イコール、かなり手厳しい。もちろん五感を総動員する。

もうひとつは海外に暮らす者としての、居住国の暮らしや味覚を基準に物事を推し量る。

後者基準では日本の惣菜や弁当はあり得ないレベルだ。なにせ安い!(アイスランドが高すぎる!!)

日本的な煮物や焼き物が入った弁当は盛り付けも美しく、食べやすく工夫されており、ひとつひとつが芸術品か!というレベルだ。安いと中身は少ないけど、2千円近く出せばそこそこの量もあり、出汁が利いている品が多くてうれしい。

一折りワンコインの安売り弁当でも、ご飯の上にメインのおかずと副菜がいくつかあり、結構いい味を出している。あれで十分だし、驚くような廉価だ。

弁当のそばに必ずある惣菜類も種類が多いし、サイズもいくつか用意されていることが多い。カキフライ一個入りもあれば、3-5個と複数個入ったものも。

どこまで細かいんだ?!

お菓子に至っては、普通は考えつかないような素材を組み合わせたり、パッケージに一工夫をほどこしたりと、「どこまでやる?」と心配になるほどあの手この手を出してくる。イラストもかわいいしね。

素敵だけれど、そこまでやる?という過剰パッケージも少なくない。

日本人、本当に創意工夫が得意だし細かいところまで気が届く。気を届かせすぎる。

それにこの大量の食料が全部売れて消費されるのだろうか?あまりにも無駄が多くないか?パッケージが見やすくて綺麗なのはいいけれど、ゴミの量が心配。

もしかして、日本の「食」文化は、滋養を得るために食するところから、完全にエンタメへ移行した?!

食の楽しみはもちろんあっていい。けれど、それが度を超えてないか?

日本には茶道という伝統の文化がある。それは哲学でもある。

茶を飲んで菓子を食むだけなら一瞬だ。そうではなく、まず建物から特別な場所を用意し、湯を沸かし、茶器を揃え、作法に従い茶を立て、菓子を頂く。叔母が茶室を持っていて、小さい頃よくお手前を教えてもらった。目当てはお菓子だったけど。

茶はお呼ばれするところから、またお招きするところからその体験は始まる。いやその前の、人選から始まっているのだろうか。当日着用する服装もそうだし、当日の天気まで茶の入れ方や茶室の過ごし方を左右する。

茶の湯は茶に付随するすべての体験を含めての茶の道なのだ。

日本人の心の中には、この茶の湯をベースに食を総合体験としてとらえ、それが良くも悪くもエンタメ化してるのか?と思うことがある。

いや、そんなに深く考える必要はなく、単に食に貪欲で工夫をし続けた結果がこうなったのか。

何にしても昨今の(私の目には)行きすぎた食の細分化やエンタメ化、必要に迫られての過大・華美なパッケージを見る度に、複雑な心境になる。このような贅沢・無駄な包装をして大丈夫なのか?

少し視点はずれるが、オーバーパッケージといえば、中身が少ないのに、大きな袋に入ってくる菓子類も解せない。異なるサイズの袋の製作コストが問題で、今までと同じサイズの方が安上がりだとか?商品サイズに合わせた陳列棚であるため、サイズ変更には大きなコストと手間がかかるとか?そういった裏事情もあろうかとは思う。

でも、でも、でも〜、袋ばかりが大きくて、その袋の中で個別包装され更に小さくなった菓子に遭遇すると、湧いてくる様々な疑問を振り払えねいのだ。くったくなく菓子を楽しむことができない。

消費者のこういった疑問は、今までに幾度も繰り返され、多くの人々が指摘してきたことかと思う。

あぁ、日本はやっぱり凄いな、美味しいな、きれいだな、と感嘆符を並べて圧倒されるだけで済めばいいが、食するという目的以外の尾鰭が多すぎて疑問に思ってしまう。需要に応えるための工夫がそういう流れになった必然ではあろうかとは思うけれど・・・。

圧倒される品揃えや美しさの感動に浸っていたいのに、どうしても老婆心でそこに付随する「無駄」を考えてしまう。

母が「おともだち」と呼ぶテレビが壊れた。別のテレビのカードを入れても症状は同じなので、寿命だと思う。推定年齢18歳。テレビとしては長生きだった気配だ。

そのお友だちをリサイクルのために家電屋へ持っていった。5720円を支払い引き取ってもらった。

その家電屋の大きさたるや、ちょっとしたライブ会場かと思うほどの規模だった。

ライブ会場並みの家電店であるから、目的の品物を見つけるためにはどこへ行けばいいのか?迷うこと必至だろう。そのためか入り口には案内人が立っていた。リサイクル目的で持ち込んだことを告げると、すぐにその受付窓口へ案内してくれた。

至れり尽くせりだ。痒いところに手が届く。

リサイクル手続き後、せっかくなのでどの国でも使える電源タップ付きでUSB-Cを扱えるものを探した。結局それは売り切れで入手できなかったが、電源タップとひとことで言っても夥しい種類が存在していた。なんというか、家電店の豆腐状態?!

物品が足りないのは困るけれど、過剰なのもどうも苦手だ。第一、物が溢れていることにある種の恐怖感を感じる。ある時突然、物がなくなってしまうのではないかという心配。杞憂であってほしい掴みどころの無い不安。

そう言いながらも、日本に居ると自分が欲する機能がある物品が必ず見つかると期待してしまう。だって本当に、何でもあるんだもん!

その恩恵を甘受しながらも疑問を持ち、憂いを抱きつつも搾取し続ける。好きだけど嫌い、嫌いだけど好きのような、何だか辻褄が合わない感情が同居する。

疑問に思いながらも、その調子で甘やかしてもらいたいってことなのか、な。

とか何とか、さまざまな思いを交差させながらスーパーの通路を歩いている。

小倉悠加(おぐらゆうか):東京生まれ。上智大学外国語学部卒。メディアコーディネーター、コラムニスト、翻訳家、ツアー企画ガイド等をしている。独自企画のアイスランドツアーを10年以上催行。当地の音楽シーン、自然環境、性差別が少ないことに魅了され、子育て後に拠点を移す。好きなのは旅行、食べ歩き、編み物。