ウクライナ紛争以来、西側諸国では軍拡が声高に叫ばれる事態になってきた。
しかし、「防衛」とは第一義的には、軍隊や武器・兵站に依存する事では無いらしいことを最近認識するようになった。言語、文化、風習、政治制度、外交、 交易等、国の体制全般で防衛を担っている。特にスイスに於いては、近年の世界大戦で国土を戦乱から遠ざけてきた知恵の結集というべきか、民意の総意に在るようなのだ。
先ず、「言語」。スイスが公用語を 4 ヶ国語も維持している事に、アルファベッ トを使うヨーロッパ語なので類似性は当然有るものの、その為の手間暇を思うにつけ、疑問に思っていた。卑近な例を挙げれば、スーパーマーケットの商品を始め、あらゆる商品の包装の殆どが独・仏・伊 3 ヶ国語で記載されている。 長い歴史的な経緯があるにせよ、公用語を敢えて絞らず、周辺国の言語を等しく維持する利点は、情報収集の点から見ても確かに有る。
但し、ドイツ語圏では、「Schweizerdeutsch(シュヴァイツァードイチュ)」、すな わち「スイスドイツ語(通称 Dialekte 又は Mundarten=方言又は口語)」が主流だ。「Hoch-, Schrift- 又は Standardsprache」と称される「標準ドイツ語」しか知らない者にとって、所々ドイツ語の単語が聞き分けられたとしても、直ぐには 理解不能で外国語に等しい語感だ。これを、ドイツ語圏のスイス人は、老若男女、学生や知識人、肉体労働者を問わず日常的に堅持している。殆どのスイス人は標準ドイツ語で話す事が出来るが、必要に迫られない限り会話は居心地のいい「Dialekte」のみ。標準ドイツ語で話すのは公式の場か、公共放送の一部で話されている程度だ。
外国人が中途半端に「Dialekte(ディアレクテ)」を話すと、かえって分からなく なるので、標準語で話すよう勧められる。「標準ドイツ語」が分かるようになると、「Diarekte」も徐々に類推出来るようになるものの、逆は無い。つまり、 「Dialekte」から「標準ドイツ語」を類推することは出来ない。
因みに、フランス語圏やイタリア語圏では、スイス方言は左程顕著ではない。 ローマ時代に遡る歴史的な経緯から、フランス語圏とイタリア語圏の地域がスイス連邦に加わり、それに伴い流入した外国人の割合がドイツ語圏と比べて多い事が一因として考えられる。
連邦政府統計局の数字を見ると、近隣諸国から毎日数十万人規模の人々が国境を越えてスイスに通勤してくる。25 年前は 14 万人だった越境通勤者数が、2020 年には 343,000 人を数え、近年では毎年約 2.7%増え続けている。内訳は、フランスから 55%、イタリアから 23%、ドイツから 13%という数字からも伺えるよ うに、「Mundart」の存在感は圧倒的だ。谷毎に方言が在ると言われ、中でもベ ルン、ヴァリス、バーゼル、ツューリッヒの方言は際立って特徴的と称されている。ドイツ、オーストリア、スイス人のドイツ語は聞き分けられても、代表的な「Mundart」の区別は付かず、且つ理解し難い。これこそ巷の防衛と言えるのではないだろうか。
2021 年度スイスの人口 873 万人強の内、外国人が 25.7%と 4 分の1以上を占 め、言語構成も、2020 年度でドイツ語 62.3%、フランス語 22.8%、イタリア語 8.0%、レトロマーニッシュ 0.5%、その他の言語 23.1%で、ドイツ語圏が圧倒的な存在感を示している。
周辺国に呑み込まれ自然消滅してもおかしくないと思えるこうした状況でも、 スイスが独立を維持して来られたのは、独自の言語を堅持する住民の強い意志 に伺える。方言は、単一民族単一言語ではないスイス国民の、精神的な要塞とさえ言えそうだ。
最近、オーストラリアやカナダで、先住民族の子供達を、親元から遠く離れた 寄宿学校に隔離して、彼等の言語と文化を排除する政策が組織的に行われたことに対して、それぞれの政府が被害者に補償を検討している事が報じられた。 先住民族は、尊厳を奪われ、風土に育まれてきた知恵と思考力が毀損された。 言語の排除は、例外無く植民地政策の根幹を成すものだった。
翻って、日本語は、ひらかな、カタカナ、漢字を用いる長い歴史に育まれてきた世界一習得困難な言語だと確信している。その分、外国語の習得は、おそら く日本人が最も下手なのは当然だ。だが、それで良いと思う。外国語は、個人の必要や興味に応じて習得すれば良いのであって、日本人の誰もが英語を話せ るようになる必要は無い。所詮時間の無駄にしかならないのは明白なのだ。「英語でしゃべらナイト」に乗せられていると、日本語は怪しくなり、英語も満足 に身に付く筈も無く、本来の思考力が損なわれて、植民地脳になるばかり。 日本語を堅持するのが最強の防衛策だと思う。
外国語の情報に直接触れたければ、原文をコピーして DeepL か google の翻訳ツールで日本語を選択して貼り付ければ、一度に 5000 文字まで瞬時に翻訳出来るので、大意は掴める。ドイツ語と日本語では乖離があるので、一旦英語を経由して訳すと、精度が上がる。それでも完璧に翻訳される保証はないので、正確な翻訳は人の手に委ねられる事にはなる。因みに、スイスドイツ語はこれらの翻訳ツールには網羅されていない。
2022 年 5 月 15 日のスイスの国民投票で、Netflix を始めとするストリーミング サービスに対する新たな義務を定めた法律が承認された。この結果は、「外国の洗脳を排除する意志も示された」と受け止められた。米国製の映画が娯楽市場 を席巻する中、スイスの慎重さの一端が垣間見えた。
2022 年 7 月 15 日付けスイスのドイツ語日刊紙「ターゲス・アンツァイガー紙」 は、「国民は中立に疑問を感じ始めている」という見出しで、ETHZ 連邦工科大学 ツューリッヒ校に依る大規模な意識調査の結果を発表した。左派系同紙の論調とは裏腹に、スイス国民の 90%前後が中立の維持を望んでいる事が示された。 「スイスに軍隊は必要か?」と言う問いにも 80%が必要と答えた。「NATO に加盟すべきか?」との問いには、今年 1 月の時点では 45%だったが、6 月は 52% と若干増えた。基本的に自主独立の自衛に拘るスイス国民の防衛意識は、今に 至るまで大きな変化は見られないのは幸いだ。
■ 「25 年間で越境通勤者数は 2 倍以上に増加」(出典:スイス公共放送 SRF)
■ 「映画改正法」通称 Netflix
Akiko Huerlimann ヒューリマン 明子 : 1979 年から在中央スイス。23 年に及ぶ金融機関の勤務で、日瑞の金融市場の変 遷を見る機会を得る。社会は経済と政治を軸に動いている事を実感し、夫と共 にスイス発の週刊時事ニュースを、スイスの特殊な政治制度に気付いてスイス の国民投票についてのメルマガを二誌発行。小国スイスの知られざる実像と存 続戦略の一端を、市民の視点で紹介。趣味は園芸。 https://www.swissjapanwatcher.ch/