京都大学名誉教授の谷誠さんが新刊『矛盾の水害対策〜公共事業のゆがみを川と森と人のいとなみからただす』(新泉社)を上梓しました。今回、特別寄稿していただきました。
Smejima Timesをいつも興味深く拝読している谷誠と申します。このたび、新泉社から本を出版することとなりました。内容の紹介とサメタイとの関連などを書きたいと思います。
〇 矛盾の水害対策 -公共事業のゆがみを川と森と人のいとなみからただす-
新泉社、280P、2500円+税:http://www.shinsensha.com/books/5920/
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水害対策は、言うまでもなく、国民にとって不可欠な国の重要な公共事業です。また近年の温暖化に伴う降雨規模の拡大によって、国は、堤防やダムといったインフラだけでは被害を防ぎきれないことを認め、「流域治水」を掲げて国民のさまざまな協力を求めています。
しかし拙著では、 国と国民の間に信頼関係がないため、水害の被害減少に向けて協力し合うことがむずかしいととらえています。こうした困難さは、現在の政権だけに原因があるわけではありません。そこで私は、「水害対策の歴史」と「自然の理解」の両面から問題点を検討し、今後の水害対策の改善方法を提案しています。
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まず、これまでの水害対策の経過を振り返りますと、ダム反対や水害裁判などにみられるように、多くの社会問題が生じてきました
なぜこのような対立が固定化されるかに注目すると「水害対策においては、工事の目標を設定してその達成に向け、流域利害関係者の理解を求めて工事が進められるが、いざ水害が発生すると一転、自然の不可抗力によるものとして責任を回避する」という、国の公共事業の基本方針が見いだされます。
たしかに自然力は抑えきることはできませんが、裁判での国の徹底した瑕疵責任否定の主張は、目に余るものがあります。法律に基づく政治や行政はそういう非情なものであっていいのでしょうか。
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水害は地球の活動である降雨が極端に大きくなった場合に発生するので、いかに対策規模を大きくしたとしても、もともと皆無にはできません。国の担当官庁である国土交通省はこの事実を十分認識しているのですが、対策目標の達成によって水害が減る(あるいはなくなる)ことを強調して、国民の理解を得ようとします。ここに、関係者との認識のずれが生じ、対立の固定化を生み出す根本原因があるのだと、私は考えています。
ですから、河川事業を行う国や地方自治体も、水害被害を受ける住民も、ダムなどの防災インフラに土地を提供しなければならなくなった人々も、すべて、「水害は根絶できない」事実を共有して話し合いのテーブルにつき、対策をどうするかをとことん互いに納得がゆくまで話し合うことができれば、対立は大きく緩和されるはずです。
しかしながら現実は、事業者が話し合いを生煮えのまま中断して計画を押し切る結果、憎しみに至る根深い対立が生じることが多いです。
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どうしたらいいのかについて、本書では、これまで述べたことから「立場によって求めるところが異なるので、水害対策をじっくり話し合う場を常に設けること」を提案しています。
もちろん、堤防が上下流より低いといった氾濫に対する弱点を修繕するような、現在あるインフラを維持回復する工事は、緊急に行わなければなりません。ですが、「その先」が問題なのです。
つまり、川の氾濫を防ぐか、氾濫しても壊れないよう堤防を強化するか、水害を受けても命を守るにはどうするか、これを事業者、住民等の利害関係者、さらには河川工学関係者以外の生態学、地球科学、環境科学、社会学、経済学、哲学など、多数分野の専門家を入れた、中長期的な検討が必要です。
ですが日本には、「事業に関する専門家(いわゆる何とかムラ)の意見によって、事業を決定することができる」というとんでもない間違いが横行しています。
本書では、決して根絶できない水害に対する中長期的な対策の検討にあたって、大胆ではありますが、「改良追及を控え、維持回復を優先すること」も提案しています。
この問題意識は、人間の手には負えない地球活動を原因として起こる水害や地震や津波などの自然災害に対し、被害を減らそうとしておこなう「改良追及」をめざす人間活動が、どこまでも無限に拡大していいのか、という根本的な疑問から生じるものです。つまり、こうした防災に限らず、すべての人間の自然へのはたらきかけは、多様な予期せざる結果を引き起こすのですが、人新世と呼ばれる現代においては、自然の処理能力の限界点に近づいているため、目標としている改良というプラスの効果よりも、副作用というマイナスの結果が大きく現れやすいです。
森林と農地と都市を結びつける川を扱う水害対策では、この副作用の問題点が特に顕著に表れます。ふたつだけ具体的な問題点を挙げておきましょう。
ひとつは、人口が集中する都市をダムや堤防増強によって水害を防ぐには大量の資材とエネルギーが必要で、対策事業の推進によってますます温暖化が進み、海面温度が上昇して降雨規模が大きくなる、つまり「ブレーキとアクセルの同時踏みが生じる」という問題です。多様な政策をまとめ、その責任を負うべき国は、この「いたちごっこ」をどう解決するか、方針を提示しなければなりません。何とかムラに任せておけばいいというのは、無責任の極みです。
もうひとつは、流域治水の活動のひとつとして、下流の都市を守るために、上流の農家に水を一時的にためる「田んぼダム」についての疑問です。水害対策としてこのような政策を推進すると、それでなくても後継者不足に悩む農業をますます衰退に追いやり、大災害や国際紛争が発生した場合、国民を飢餓に陥れる危険性があります。国防増備に突き進む国は、この大問題をどうとらえているのでしょうか。
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こうした水害対策にかかわる国の無責任な体制は、今に始まったものではなく、明治維新以来の近代日本の政治の抱えている病巣から生じるのではないかと私は考えています。
先の無謀な大戦もこの路線の中で実施され、多大な犠牲者を出しました。最近では、財政計画にしても、原発にしても、軍事にしても、マイナカードにしても、五輪・万博・IRにしても、縦割り的で総合的な哲学を欠いた発想で開始され、結果責任が不明確なものばかりです。暮らしに欠かせない自然災害でさえ、「自然の処理能力の限界点越えの危機」の中にあるわけで、こうした危機を念頭にした総合的な政策が求められているはずです。
子ども食堂に駆け込むおなかをすかせた子供たち、看護や介護や保育に苦労されている方々など、緊急に援助が必要な方々を助けないのは、堤防の弱点を緊急に修繕しないことに対応します。初めに述べた「計画目標を設定して水害対策工事を行い、いざ水害が発生すると一転、国は、自然の不可抗力によるものとして責任を回避する」、これは、失敗責任を回避する政治に似ています。
私は、毎日サメタイで語られている問題の本質は、緊急の問題にも中長期的問題にも対応しないこの国の絶望的な政治のあり方から来るのだと思います。
本書は直接的には、「水害対策の矛盾」を題材に、その矛盾の生じる歴史や改善につながる自然の理解について論じていますが、すべての政策において、同様の議論が必要で、それをもとに国を変えてゆかなければならないと思います。ぜひ、ご一読いただき、コメントやご批判をいただきますよう、お願いします。
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