昭和58年(1983)7月30日午後7時半頃、2階の自室にいた私は母の叫び声で階段を駆け降りた。そこにあったのは大の字に横たわった父の姿だった。「パパ、パパ」と父を呼ぶ母の声、父の口角から垂れ流れる涎と聞こえ始めた高いびき。何が起きたのかわからず呆然と立ち尽くす私の後ろで弟が「救急車!」と言った。
搬送先の大学病院の救命救急室に呼ばれた時、診察台に寝かされた父の服を看護婦(当時は看護婦と呼んだ)が鋏で切っていた。家族に許可を得るような時間もなかったのは、看護婦の慌て振りでわかる。「これ、着ていたものです」。呆然としている私の前に看護婦が差し出したのは、鋭い切れ味の鋏でバラバラにされた父の服が入った袋だった。
医師から告げられたのは脳内出血。深夜から手術を始めたが夜が明けても私は病院の廊下にタオルを敷いて座り手術の終了を待っていた。急患の家族は決められた場所で待たされるが、2台ある長椅子には座れないほど夜中の急患は多かった。
真夏というのに病院の床は冷えた。医師から手術の終了を聞いたのは、午前7時頃だった。命は取り留めたと言われたが、その後、父はどうなるのか私にはまったく想像もできなかった。
この時、父は49歳、弟は18歳、22歳の私は暢気にアルバイトをしながら芝居を観たり小説のようなものを書いたりしているフリーターで、大黒柱を失った我が家の生活が大きく様変わりするであろうことに家族の誰もが戸惑うばかりだった。
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元気だった頃の父
この頃の病院は、現在のような看護体制ではなく、状態が重い患者の身の回りの事も家族がこなさなければならなかった。その厳しさを痛感した私は、差し出された「おむつ」を見て困り果てた。「ご家族、来た、来た」と言いながら看護婦は、「おむつ」を持って来た。「替えておいてくださいね」と言われても「はい」としか言えない。「看護婦さん、やってください」とは言えなかったし、言ってはいけない雰囲気があった。
看護婦からおむつを渡されても、大人のおむつを初めて見た私は、これをどうすればいいのかわからなかった。父のおむつを替えることはわかるのだが、それを実行に移すやり方が見当もつかない。そもそも、家庭人というよりは自由人で、外車を乗り回し、夜の六本木で遊んでいた父がおむつをしている現実を突きつけられた私はひどく混乱した。おむつ交換に音を上げた私は、優しそうな看護婦を捕まえてはおむつ交換をお願いしていた。
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父使用の車椅子
脳内出血で手術を受けた父の頭蓋骨は、頭部左寄りを楕円形にくり抜かれていた。その頭は、夜のバーで綺麗なお姉さんから何度も撫でられたのかもしれないが、すでに見る影もない。くり抜かれた楕円形の頭蓋骨はアルミ製の弁当箱のような箱に保管されていた。長年使用しているのか箱の色は燻んで見えた。
頭蓋骨を楕円形にくり抜かれた父の鼻からは胃へ管が入れられた。脳の手術後はストレスが強くなり胃酸が多く出るという。父は腕に入っている点滴の管とともに胃酸を吸い上げる管も力任せに引っ張った。点滴の管を抜くのでパジャマは血だらけになり、母は嘆いていた。
昭和の終わりには、今のようなレンタル・パジャマもタオルもなかった。患者の洗濯物は家族が毎日のように病院から家へ運び洗濯しては干す。雨の日が続くと乾かなくて困った。厚地のパジャマはなかなか乾かない。毎週数万円単位で届く病院からの請求書。定期預金を解約せざるを得なかった祖母。浪人していた弟は国立大学が落ちたら就職すると言った。
そんな状況を知る由もない父は、意識レベルが低下し叫ぶ、喚く、暴れる、目つきは虚ろとして焦点が合わない。何度も点滴を抜くので動く左手にはとうとうミトンが被せられた。
(※註 医療・介護用ミトンは、おむつを外す、点滴を抜く、身体を傷つけてしまうという危険行為を防ぐための手袋状のもの。専用器具や特殊ホックを使用するので患者自身は外せない)
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父愛用の眼鏡と時計
脳の腫れが引き、頭蓋骨の穴に蓋をされた父の意識レベルは徐々に上がり、昼食に出された玉子焼きを見て「き・い・ろ、きいろ、黄色」と言えた。私は欲をかき「黄色じゃなくて玉子焼き、玉子焼きって言ってみて」と言うと父は「キ・イ・ロ!」と歪んだ口で叫んだ。
倒れる三日前に買ったばかりの黒い自転車を自慢したあの日の父は、急速に私から遠くなり、目の前にあるのは人の形をした食欲の塊に思えた。歪んだ口の端から垂れる涎に私の感情は消えて行った。感情を消さないと父ではなくなった父と対峙できない事を22歳の私は無意識のうちに飲み込んだようだった。
玉子焼きの昼食の時からすでに40年を越える歳月が流れたが、この日の事は今も忘れない。手術後に初めて父が言葉らしい言葉を口にしたからだ。この時、玉子焼きを見て「黄色」と言えた父に一縷の望みを抱いた私は、後に介護の底無し沼に足を掬われることになる。
父に疲れると脳外科病棟をふらふら歩いた。意識の戻らない夫の足を摩る女性の話し相手をし、ナースステーションの掲示板に貼られた『脳涼大会』ポスターの「脳」の字の洒落っ気に笑い、父のベッド脇の丸椅子に戻った。病院の外は夏の盛りで蝉しぐれが響いていた。
ここから38年に及ぶ私の介護生活は始まった。
〈次回へ続く〉
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橘 世理(たちばなせり)
神奈川県生まれ。東京農業大学短期大学部醸造科卒。職業ライター。日本動物児童文学賞優秀賞受賞。児童書、児童向け学習書の執筆。女性誌、在日外国人向けの生活雑誌の取材記事、記事広告の執筆。福祉の分野では介護士として高齢者施設に勤務。高齢者向け公共施設にて施設管理、生活相談を行なう。父親の看護・介護は38年間に及んだ。