今回は、私(橘 世理)の90歳の母のインタビューをお届けする。
私には「90」という数字が、やけに重く、大きく、高く感じた。100歳も珍しくない昨今とはいえ、その次の110歳はほぼ来ない。100歳ですら迎えることができる可能性は低い。
そのような事をつらつらと考えているうちに、母が90歳を生きることが奇跡のように思え、どのような事を感じながら生きているのか、訊いてみようという気持ちになった。
母の家のテーブルの上にレコーダーを置くと、緊張し始めたようで、眼鏡を掛け直したり、背筋を伸ばしたり、咳払いもする。これはどこまで本音を訊けるかな、少し心配になりながらレコーダーのスイッチをオンにした。母は、90歳にして初めての録音体験に臨んだ。聞き手は、橘 世理。

歩行器で週末の散歩
1 90歳を迎えたが、どのような気持ちか。
母「何歳まで生きるかわかりませんが、一日一日、元気でいたいと思います。転ばないように、認知症に気をつけながら。気をつけるというよりも、ならないようにしたい」
橘「60歳、70歳のとき比べてどうですか」
母「体の方は、あっちが痛い、こっちが痛いを感じます。動きが鈍いし、思ったように動けないので。足が動かなくなります」
橘「90歳ですが、自分では何歳くらいの感覚ですか」
母「自分では50歳、60歳の感覚ですね。感覚はそうだけれど、体だけが動かない」
2 今、困っている事はなにか。
母「困っている事は、忘れないようにするということ」
橘「忘れやすくなっているのですか」
母「会社の仕事をやっているので、忘れないようにというよりも、間違えないようにするということ」
※90歳の母は、親戚の事務所で長年経理事務をやっている。算盤が得意。
橘「ほかに困っている事はありますか」
母「元気をもらいたい。若い人の元気をもらいたい。でもそれは欲張りになるので、一日を楽しく生きられればいい」
橘「何が楽しみですか」
母「楽しみって言ってもね、何ができるわけでもないので、テレビを観たりすること。旅番組や野球やサッカー観たり、相撲観たり」
橘「スポーツはなにかしていましたか」
母「学生の頃にソフトボールとか、バレーボールとかね。子どもの頃は卓球、卓球好きだったわね。まあ、今はね、やってみたいけど、欲張っても仕方ないのでね」
橘「お料理も楽しみのひとつだった」
母「そうね、でももう疲れちゃうから。怪我してもつまらないからね、あまりやらない」
3 デイ・サービスは楽しかったか。
母「楽しいというよりも、お年寄りばかりだからね。周りを見て、ああ、こういうふうになるのかなと思ったりね」
橘「大して楽しくはなかったのですか」
母「楽しいとかそうでないかではなくて。食事もしないし、麦茶が一杯でて、3時間で終わりだからね」
※母は、半日の機能回復訓練を中心としたデイ・サービスに通っていた。
橘「所謂、デイ・サービスというのではなく、サロンのようなものがいいのですか」
母「サロンというか、なにかな。若い人と違って、いっぱい食べられないからね。デイ・サービスはどこも同じだと思うし、自分からなにかできるわけじゃないし。元気だったらいいけどね。外へ散歩へ出かけることもできるから」
※母は、私と共に38年父の介護を行なっていた。その過程で無理がたたり、圧迫骨折を2度やっている。半年前には左側の肋骨3本を骨折、ひと月前には右側の肋骨を折った。
橘「今はデイ・サービスをやめたけど、また行きたいですか」
母「とくに行かなくてもね。行かなくていいかな」
※行けば行ったでそれなりに楽しい事もあったようだ。ただ、体調を崩し休みがちになり、それでも再開を考えてたところに頻繁に休むならやめて欲しいと言われてしまったのだ。体調を崩しやすい高齢者対応の事業所とは思えず、私と母は気分を害した。
4 車椅子で出かけたがらないのはなぜか。
母「まあ、ねぇ。歩けるからねぇ」
橘「歩けるからですか!でも隣のバス停までも歩けないでしょ」
母「歩行器ならね」
※現状では、歩行器でも隣のバス停まで行かれない。
橘「車椅子ならここからドラッグストアへ行けるのに」
母「あたしは、仕事があるし」
※話を逸らすとき、いつも仕事があると言い出す。
橘「車椅子が嫌なのかな?」
母「嫌というよりも、押してもらわないとならないから」
橘「いつでも押すけど」
母「そういうのじゃなくて、自分がそうなんだって思っちゃえばどって事ないだろうけど。杖で結構ね、歩ければいいんだろうけど。そういう我が儘は言ってはいけません、と思うけど」
※車椅子に乗り、住んでいる街を移動するという自分を認めたくないという気持ちが察せられた。わからなくはないが、いつまでも拒んでいると行動範囲が狭くなる。私は、認知機能が低下する前に、行けるところへ車椅子で連れて行きたいのだ。たとえば、母が行ってみたいと言っている回転寿司店にも。

年輪を重ねた母の手
5 生き甲斐はなにか。
母「生き甲斐!?‐生き甲斐。生き甲斐というよりも、一日一日元気なら良いと思っちゃうわね。三度三度食べられて」
橘「仕事も生き甲斐?」
母「そうね。生き甲斐というよりも、間違えないように、間違えないように。この頃、ボケて、自分の気持ちと頭の中が違うから、これが年なのかなと思うのよ。90歳になってこれが年なのかしらと思った。まあ、歌でも歌ってカラッとすれば、頭の中がすっきりすると思うけど」
6 これから何をしたいか。
母「これから何をしたいか!? そうねぇ、欲張ってもしょうがないし」
橘「欲張りではなく、希望として何をしたいですか」
母「お風呂に入れて、食べられて」
橘「それはよくわかる。日常的なものはちょっと置いておいて、そうではないもので」
母「今日なんか、頭重いし。スッキリしたいなって思っちゃう、て感じ」
橘「行ってみたいところは」
母「行ってみたいて言ったって歩けないしさ」
橘「ちょっと現実から離れて。もし行けるならどこどこに行ってみたいというのがあれば」
母「もう考えないことにしてるの」
橘「考えたとしたら」
母「考えたとしたら、そうねぇ、船でね、船に乗ってどこか行きたい」(声をあげて笑った)
橘「たとえば?」
母「たとえば、船に乗って、山を見たい、そんな感じね。でもそれはね、なかなかできなくなったから、ということ」
橘「生きる上での信念のようなものは?」
母「信念ねぇ、ははは。(仏壇に)お線香あげて、一日元気でお願いしますって言ってるだけよ。くたびれちゃうよ。今日なんか一番頭が痛い、薬飲んだ」
橘「頭が痛いときにインタビューしてすみません」
母「一日は、一日よ、こういう時もあるし、ということ」
7 高齢者施設について
母「姉さん(義理姉)なんか気に入らなかったからほかへ移ったから。気に入ったところなんて無いわよ。介護の人ともお話は合わないし。しょうがないわよ」
※施設の話になると自分の夫のことよりも、今も入所している義理姉の事を話し出す。
橘「お父さんは特養へ入って良かったでしょ」
母「あたしが行ったとき、待ってたんだよ!って言ってた。可哀想だったけど。お父さんは酷かった。ビニール敷いてもお布団は濡れちゃうしさ。とてもダメだった。施設に入れてしまって、ごめんね、ということ」
※父の在宅介護は38年に及んだが、特別養護老人ホームに入れる前の半年間は、身体と認知機能が衰え、とくに排泄では苦労した。そのことを言っている。
橘「好きな食べ物は?」
母「そうねぇ、食べられなくなっちゃったからね。あれが好き、これが好きって言えなくなっちゃった。元気だったらね」
インタビューを通してどこまで90歳の心の中を覗けたのか。物足りなさも感じる。娘が聞き手なので構える部分も多いかもしれない。
項目ごとに訊いてみても「年齢による諦め」が滲み出る。言葉を選び、思いを噛み締めながら話す。最後には「ということ」と言って終わる。
インタビュー中に「欲張っても仕方ない」と母は何度か口にした。実姉や友人たちは、50代から70代のときに、国内や海外の旅行を楽しみ、習い事をしていた。その年代のときの母は、父の在宅介護に時間を費やしていた。長い介護の末に、父が亡くなったとき、母は86歳になっていた。介護中に「ショートステイを利用して、旅行すればいいのに」と母は友人によく言われていたが、それぞれ事情が違うと腹を立てていた。
父亡き後、母に熱海にでも行こうと誘ったが、二度の圧迫骨折のせいで母は外出する気力も失せていた。どこかに連れて行ってあげたいと思うのは親孝行ではなく、私自身の自己満足だと気づいた。大事なのは、日常を楽しく過ごすことだ。
植物が好きな母は、庭の草花や木々の世話を喜びとしている。
母は、計算に強いが、故事や慣用句に弱い。「人の噂も?」と言うと、母は少し考えてから「四十九日!」と自信満々に答えた。人の噂も七十五日でしょと言うと、母は笑い転げていた。
楽しく笑う日々を送らせてあげたい。時間は限られている。
写真:橘 世理

橘 世理(たちばなせり)
神奈川県生まれ。東京農業大学短期大学部醸造科卒。職業ライター。日本動物児童文学賞優秀賞受賞。児童書、児童向け学習書の執筆。女性誌、在日外国人向けの生活雑誌の取材記事、記事広告の執筆。福祉の分野では介護士として高齢者施設に勤務。高齢者向け公共施設にて施設管理、生活相談を行なう。父親の看護・介護は38年間に及んだ。