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福祉・介護のある風景(12)4人の親族を介護したKさんの話(後編)~橘 世理

今回は、23歳から祖父母、伯母、母親の4人を介護した体験を語るKさんのインタビューの後編となる。介護保険制度もない祖父母の介護生活から一変、介護保険制度が始まった中で介護をした伯母と母親の事を聞いた。聞き手は、橘 世理。(前編はこちら

1 独身独居の伯母

Kさんの伯母は1929年(昭和4)生まれ、2010年(平成22)に80歳で他界した。もともと身体が弱く、60代からリウマチを発症しステロイド治療を行っていた。その影響から60代後半に胃に穴が開き、大量吐血した。出血箇所をクリップ止めしたのはいいが、胃が変形してしまった。その事が最後まで尾を引いた。

※ステロイドは、胃の粘膜を保護する物質の働きを抑えるため胃の粘膜が弱くなる。

橘「伯母さんの介護が始まったのはいつ頃ですか」

K「2000年前後からだね。ちょうど2000年から介護保険制度が始まったでしょう。1999年初頭から僕は、介護保険制度のためのソフトウェアのインターフェース・デザインの仕事をしていた。だから介護保険制度が始まる前から、介護保険というものがどんなものかある程度わかっていたんだ。伯母が近く使うようになるだろうと思いながらデザインの仕事をしていた」

K「伯母が70歳になる頃から買い物代行や炊事、洗濯をやっていた。伯母は独身独居だったから、おばあちゃんから面倒をみてやってくれと頼まれていたんだよね。伯母の住まいにはお風呂がなかったから銭湯に通っていた。73歳頃まではなんとかそこに歩いて通っていた」

幼い頃のKさんは、祖父母と伯母に育てられた。介護はその恩返しでもあった。

2 転倒を繰り返すようになった

K「ある時、駅前の蕎麦屋から電話がかかってきて、お宅の伯母さんが店の前にいて、歩けなくなっていますと言われてね。駆けつけてみると、伯母は銭湯の帰りに疲れ切ってしまって脚が動かなくなったと言っていた。ついに伯母の介護生活が始まると思ったよ。それまでは生活支援だったけれど、そこから介護生活が始まった」

上述のようにKさんは、介護保険制度用のソフトウェアのインターフェース・デザインを行なっていた。そのため、訪問介護はどのようなものかは事前にある程度知っていた。これが祖父母の時とは大きな違いだったそうだ。

橘「それはどのような違いになりましたか」

K「自分以外の他者に何を頼めるか、何を頼めないかは明確に理解していた。おじいちゃん、おばあちゃんのときには後手後手に回っていたのが、少し先回りできるようになったんだよね。まず初めに、デイサービスに行って足腰を鍛えるためのリハビリができるように手を打った。他には週に2回訪問ヘルパーさんを頼んで買い物や家事をお願いした。そんな生活が伯母が73歳から76歳頃までの3年あまり続いた」

橘「伯母と言えど独身女性なので気を使う事はありますよね」

K「そうだね。とくに着替えや排泄のことだね。勿論、僕は伯母の嫌がることや恥ずかしがることはしなかった。ところが大きな転機が訪れた。足が弱って自宅内や外での転倒が増えてしまったんだよね」

Kさんの伯母は、大型の歩行器を使用していたが、ブレーキを掛けられずに歩行器が先に進んで転倒してしまったそうだ。そのとき、顎に怪我をした。ほかにも真後ろに転倒して後頭部を16針も縫ったことがある。転倒に因る救急搬送は3回あった。かなり脚や手の力も弱ってしまっていた。

K「これは本当に困ったぞと思った。歩けるとはいえかなり脚が弱っていた。伯母はそれでもなんとか歩こうとするから転倒するリスクが大きかった。肘や脚の擦り傷や打撲のような怪我も多かったね」

K「極めつけは自宅での転倒だった。僕が伯母の家に行ったとき、ドアが開けっぱなしで、伯母が台所で仰向けで寝っ転がっていたの。立たせようとすると猛烈な痛みが走って立てないと言う。尿失禁もあった。救急車を呼んだけれど救急隊員が担架に乗せたときは、痛みで絶叫していた」

転倒した伯母は、股関節を骨折していた。搬送先の医師からは人工骨頭置換術を行わないと二度と歩けないと言われ、専門病院への転院を促された。そこでの手術後、ひと月近くリハビリをしたが、思うほどの効果は出なかった。自宅に帰った後はなんとか歩いていたが、足の運びは悪くて歩幅が小さい。それもすぐに転びそうな弱々しい状態になってしまっていた。それでも生活を元に戻そうとデイサービスへの通所を再開した。

K「ところが、デイサービスの主任さんから、伯母の独身独居の生活はあまりに危険でこれ以上は無理ですよと言われた。私から特養へ相談しますと言ってくれたんだよね。伯母が77歳のときだった。結局、退院して、1カ月しか自宅で生活できなかった」

註: 特養とは、特別養護老人ホームのことで、要介護3以上の人が入る高齢者施設。

Kさんの伯母(向かって右)と母親(左)


3 伯母の介護に根を上げた母

橘「伯母さんは、お母さんのお姉さんですよね」

K「そうだね、母の実の姉。特養に入れるのは1カ月くらい先だったから、母親の家に連れて行ったんだ。体が思うように動かないから、僕と母で介護しようと思ってね。ところが母親が根を上げちゃったんだ、介護をやったことがないから。僕はおじいちゃん、おばあちゃんで経験していたし、伯母とも7年くらい付き合ってきたからどうってことはなかったけど。介護の経験がない人にとって、24時間誰かの介護をするというのは、物凄く苦痛らしい。母親は、もう嫌だ、あたしには無理、側にいたくないって叫んで、ほかの部屋に行っちゃった。しょうがないから僕がおむつ交換などをした」

4 ホテルみたいと言って気に入った

Kさんの伯母の入った特別養護老人ホームは当時まだ開設されたばかりの新しい施設で、どのスタッフもやる気に満ちて、福祉介護に対する情熱があってとても良い施設だった。ただ新しい環境に伯母が慣れることができるかどうか心配だったKさんは、多いときは週に5日、伯母の施設を訪れた。

K「ずっと独身だったから集団生活はダメかなと思ったけれど意外と馴染んでくれた。とにかくスタッフさんたちがとても良い人たちだった。お風呂も丁寧に入れてくれるし、髪の毛のブラッシングから足の爪切りまで徹底的にやってくれた。伯母は、料理を作ることが好きな人じゃなかったから、こりゃ天国だわ、ホテルにいるみたいと言って、喜んでいた」

しかし、1年半の間に度々起きた転倒や骨折に、Kさんは、心底、参ったなと思ったそうだ。自分ひとりでの介護が限界に達した時に特養に入れてもらえたからこそ、伯母は人生の最後まで人間らしい生活ができたと言う。特養に入居して2年半後の平成22年にKさんは、伯母に別れを告げた。

5 母は83歳まで泳いでいた

橘「お母さんはスポーツが好きだったそうですね」

K「83歳まで泳いでたね。朝、ジムのプールで1時間泳いでいた。若い頃から運動が好きで、スキーやスケートが好きだったそうなんだ。東京に来てからは、自転車に乗るのが好きだった。自転車マニアみたいなところがあって、電車で8駅分くらいある所へも平気で自転車で行っちゃう。とにかく運動が好きな人だったから、足腰が弱くなるのは同年代のお年寄りよりはかなり遅かった。それでも人間って最初に弱ってくるのは脚なんだよね」

Kさんの母親は、どこへ行くにも使っていた自転車である日激しく転倒をしてしまった。そのときから自転車に乗るのが恐くなり、遂に自転車に乗らなくなった。そうなると行動範囲は狭くなり、徒歩圏内しか移動しなくなった。そのうちに歩くのも億劫になり、あまり歩かなくなってしまった。

6 買い物代行が始まった

K「そうなると買い物にも行かなくなるから、僕の買い物代行の生活が始まった。母の介護の始まりはそこからかな。伯母のときは車椅子を借りたけど、母親のときはリサイクルショップで中古の車椅子が3000円で売っていたからそれを買っちゃった。レンタルだと改造する訳にはいかないからね」

Kさんが母親を介護し始めたときには、祖父母のときのように後手後手に回ることは極めて少なくなった。

K「僕もさすがに学習した、母親のときには先回りして介護ができるようになっていた。伯母のときに痛い目に遭ったから早めに部屋の中に手すりを付けたり、介護シューズを買ったりして予防的な措置をした。転倒したきに軽傷で済むように、散歩の時には肘や膝にプロテクターみたいなものを付けてみた。母もこれなら安心だと言っていた。転んだことは何回かあったけどそれらを体に付けていたから大きな怪我にはならなかった」

橘「歩行に問題はなかったのですか」

K「85歳のときに横断歩道で転んで顔面を強く打った。頬がへこんじゃってね。そのときからひとりで歩くのはやめてくれと言って、僕が一緒に付いて歩くようになった」

橘「伯母さんのときと比べて在宅介護の違いはありますか」

K「家に浴室があったので、銭湯通いだった伯母のときよりは随分とやりやすかった。おじいちゃん、おばあちゃんのときの七転八倒の介護生活から比べると介護生活の全てにおいて準備や手回しが数段良くなった。でも、それでも介護している側が予想もしない事が起きるでしょ。だから混乱や動揺がなかったわけじゃない。転倒もするし、尿失禁もあるし、突然腹痛になったりしていた。特に、4回目のコロナワクチンを打った後に脚が麻痺してしまった。結局それが自宅介護から特養に入ることになる転機になった」

母親の脚が麻痺したとき、病院へ連れて行ったがとくに問題なしと言われた。タクシーに乗せて連れて帰ったが、脚が麻痺して歩けない。仕方がないのでKさんは母親を背負ったが、後ろへ転倒してしまい起き上がれなくなり、見かねたタクシーの運転手に助けてもらった。結局、足の麻痺は治らずに、すぐに特養入所の申請をすることとなり、半年後にはスピード入所となった。

7 苦しい事も笑い変えてくれた伯母と母親

K「色々あったけど、伯母も母親もユーモアのある明るい人だった、冗談が好きで何でもかんでも笑いに変えようとしてくれたから助かった。伯母と母親の介護を通して思ったのは、人柄は大事だなということ。自分が年をとったときには、人に対して明るく楽しく接するようにしたいなと思う。どんなに苦しい状況でも、笑いながらやってる方が気持ちが助かるでしょ。」

橘「伯母さんとお母さんは、自分のご両親の介護からは逃げてしまったのですよね」

K「そうなんだよね。でも、いざ自分が介護される立場になると介護する僕に対しては協力的な態度をとり続けてくれた。それはとても救いだったな」

8 介護制度の充実が時代を変えた

Kさんは、介護保険制度のない時代に祖父母を介護し、制度発足後に伯母、母親の介護した。

K「介護保険制度ができて一番変わったのは、人の心だよね。高齢者に対する考え方ががらっと変わった。それと、地域包括支援センターや介護事業所によって、在宅介護を支えてくれる体制ができたのは、素晴らしいことだよね」

Kさんのインタビューの中で印象に残った言葉はいくつかある。その中で「好きで介護をする人はいない」というものがとくに心に残った。

私も好きで父親の介護をしていたわけではない。多かれ少なかれ、仕方がないから介護をやるのだ。

介護というのは、直接、身体に触れることだけではない。自分以外の兄弟姉妹が親の介護をしているならば、通院時の送迎をする、兄弟が出かけた時に留守番をする、或いは、経済的援助をするなどということも手助けになるのだ。

周囲の知恵と協力によって、介護者が決して孤立することのないような状況を作り出していきたいものだ。

写真:橘 世理

橘 世理(たちばなせり)

神奈川県生まれ。東京農業大学短期大学部醸造科卒。職業ライター。日本動物児童文学賞優秀賞受賞。児童書、児童向け学習書の執筆。女性誌、在日外国人向けの生活雑誌の取材記事、記事広告の執筆。福祉の分野では介護士として高齢者施設に勤務。高齢者向け公共施設にて施設管理、生活相談を行なう。父親の看護・介護は38年間に及んだ。

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