介護サービスを使いたいと思っても、すぐに使えるわけではない。まずは地域包括支援センターか役所の福祉課へ連絡をする。その後に役所から派遣される介護認定調査員と認定を受ける者が面談し、要支援または要介護の認定が決まる。決まるまでにひと月ほどかかることもある。
私は、父、母、叔父の3人の介護認定調査に家族として立ち会った。当事者だけでは、調査員に本当の事が伝わらないからだ。
今回は、調査日に立ち会った私の体験を記したい。

高齢者福祉の要
1️⃣ 調査員の質問に「できる」を連発する父
私が調査日に立ち会ったのは、父が80歳を過ぎてからだ。右半身不随、言語障害、障害者1級、介護認定もされた父は、80歳前半まで介護サービスをほとんど受けていなかった。
父のケアは母と叔父が中心となっていた。杖も車椅子も購入し、通院などの移動は叔父が車で連れて行った。父が「行かない」と言うのでデイサービスも利用したことはない。
その後、私は、地域包括支援センターに依頼して介護事業所を変えてもらった。頑固で文句の多い昭和ひとけた生まれの父を上手に誘導できる腕の良いケア・マネージャーを探していた。
介護認定日に立ち会うようになったのは、新しいケア・マネージャーからの依頼があったからだ。客観的に困っている状態を伝えることが私の役目だった。
介護認定調査日、調査員の質問に父は「できる」を連発した。「トイレに行ってお通じがあったとき、ひとりで上手に拭けますか?」「拭けるよ」と言語障害が残る父は当たり前のように答えた。
私は、軽く頭を振り、「3回に2回は、便が手につき、凄いことになります」と答えた。調査員は、私の言う「凄いこと」がどのような状況なのか即理解したようだった。
便は、手や指に着くだけではなく、爪の中にまで入り込む。「手を洗いに洗面所まで行こうと言うと、行かなくていい!と大きな声を出して困ります」と言うと、「それは大変ですね」と調査員は言った。
この時、医師からも介護認定が低いと思われていた父は、要介護3となった。医師は、すでに施設へ入るレベルだと言っていたので要介護4でも当然だと思っていたようだった。父にようやく、状態相当の認定が出た。要介護4に限りなく近い3だ、私はそう理解した。
2️⃣ 調査日に自分の状態を話すときは
父の場合だが、「〇〇はできますか?」と質問をされると、できるかできないかで答えなければならないと思ってしまい「できる」と言ってしまったのかもしれない。これは、助けが必要な状況で「大丈夫ですか?」と訊かれて「大丈夫です」と答えてしまう人が多いことと似ている。
私が通う整形外科医院では、痛みの最大値が10とするなら今はどれくらいですか?と、15センチくらいの痛み度合いを指す物差しを出してくれる。痛みの程度を知るには便利だ。
介護認定調査のときも、行動がどの程度できるのかを指し示す物差しがあるとより日常を把握できるのではなかろうか。3割できるのであれば、できないのが7割、このように数字で表すと判りやすい。
調査日は、できる事よりもできない事、困っている事を伝えるようにする。上述のように数字で伝えると相手はより判りやすい。
3️⃣ 父と母だけでは正しい事が伝えられなかった
私の両親の場合は、二人に任せていたら、介護認定調査員に正しい情報を渡せなかったということが判った。
父が「できる」を連発しても、母が「できないでしょ」と言うのではないかと思っていた私が甘かった。母も「できるわよね」と言ってしまうのだ。父のケアで腰痛になるほど大変な思いをしている母は、その苦労を身に染みているはずなのに。
母は、長年、往診に来てくれる医師や知人には、愚痴をこぼすように父の介護がいかに大変かを話すが、相手が役所の人となると緊張し、よそ行き顔になってしまうようだった。これでは介護認定に来てもらう意味がない。
4️⃣ 背中が痛いと言いながら「でも大丈夫」と口にする
現在母は、90歳。この15年の間に圧迫骨折を2度やり、脊椎は、胃の後ろ辺りで出っ張ってしまった。介護認定は、要支援2だ。
そしてここ1年の間には、右側の肋骨3本、左側も1本折れた。肋骨は良くなったが、圧迫骨折をした箇所は、痛みが継続している。脚もわずかに痺れを感じている。
そのような状態にもかかわらず、介護認定調査のときに母は、「うーん、でも、大丈夫、できる」と言ってしまうのだ。
そのときに立ち会っている私は、「できますが」と母の言い分を肯定しながらも、「これまでと比較し、腰を曲げる動作ができにくい」と伝える。洗髪ができない、靴下を履くのが大変になってきたと母の体の状態について詳しく補足説明をする。この具体的な補足説明が調査の重要な判断材料になる。
なぜ「大丈夫」と言ってしまうのか?
日本人が強く抱えている「他人に迷惑をかけない、かけたくない、人の世話になはなりたくない」という気持ちの表れだろうか。この気持ちは時に救命行為の妨げにもなる。
5️⃣「できるよ、問題ない」と見栄を張る叔父
救命行為の妨げと言えば、体重約120キロの叔父が自らの救命を拒否し、頭を抱えたことがあった。
叔父は独身独居、後期高齢者まで1年ある。心不全マーカーが高く、脚もかなり浮腫んでいる。体重がある影響で膝に影響も出て、歩行困難になっている。杖と手すりがないと歩けない。90歳の母の方がはるかに歩ける。
医師からは、とにかく痩せろと言われ続けてきたが、叔父にはその意思は皆無だ。その結果、120キロという体重まで膨れ上がった。その原因は、精神的な問題もあると思われる。
一番厄介な事は、誰の意見にも耳を貸さないことだ。「ほっといてくれ」「余計なお世話だ」と言って他者のケアをことごとく嫌う。日頃から意地を張る。この叔父が、今夏の酷暑で熱中症になり転倒、救急車を呼んだ。
40度の発熱にもかかわらず、本人に発熱の自覚はなく、救急隊の質問には「大丈夫、いつもと変わりない、歩ける」を連発した。
搬送先の病院でも、緊急対応の医師に「いつもと変わりない、歩ける、帰れる」と叔父が言ってしまったために、医師は、数日の入院を希望した私たちをけんもほろろに突き放した。
「120キロの巨体をどうやって抱え、タクシーに乗せればいいのかわからない」と途方に暮れた私に、「タクシー乗り場まで車椅子貸しますから」と医師は言った。医師の冷淡に聞える言葉も、叔父が撒いた種(言葉)がもとになっていたに違いない。
救急搬送先の医師がひとつだけ良い事を言った。「地域包括へ連絡して、福祉で看てもらってください」。
叔父が拒絶してきた事を医師が言ってくれたことで、二進も三進も行かなかった物事が突破できた。他者の気持ちを受け付けない叔父でも救急搬送は精神的な打撃となったようで、叔父が介護認定を受けることを承諾したというのは、本人にとっても家族である私達にとっても大きな転機となった。
介護認定調査日に叔父が「できる、大丈夫、自分でやっている、ちょっと杖を突くくらい」と調査員に答えたのは、想定内だった。歩行がかなり困難ということは、ひどく浮腫んだ足を見た調査員には一目瞭然だったに違いない。
この場に同席した私は、叔父がいる間は一切口を開かなかった。やっぱり介護認定はやめると言い出しかねないからだ。叔父と離れた後で、日常の様子を具体的に記載したメモを調査員に渡した。認定の判断材料は多い方がよい。
私の家族・親族は、個性の強い人たちが揃っている。中でも体重約120キロの叔父は、今後も対応に苦慮すると思っている。救急搬送するのも、入院するのも、介護サービスを使うのも、本人の意思次第だからだ。叔父以外の人たちが、病院へ、介護サービスを、と希望しても、当の本人が拒絶すれば周りは何もできない。
本人の考えが間違っていても、意思を尊重しなければいけないので、意思確認ができる間は、救命措置をしないと危ないとわかっていてもどうすることもできない。相談できる先にすべて相談してみたが、到達した結論は、待つのみ。
ケアを拒絶する叔父は、もう自身のゴミも集積所へ出せないので私と夫で出している。集積所まで重たいゴミ袋を持って歩けないのだ。
このようにゴミも出せなくなっているのに、介護ケアを拒絶するというのは矛盾にしか思えない。「他人の世話になりたくない」の思いが空回りし、叔父自身の命を縮めている。
人は、生まれてから死ぬまで誰かの手を借りている。死んでからも誰かの手を借りる。それを考えれば、弱音を吐いて、「助けて」と言える人でありたいし、笑顔で「ありがとう」を言える人でありたい。
「ありがとう」と笑う門には福来たる。
写真:橘 世理

橘 世理(たちばなせり)
神奈川県生まれ。東京農業大学短期大学部醸造科卒。職業ライター。日本動物児童文学賞優秀賞受賞。児童書、児童向け学習書の執筆。女性誌、在日外国人向けの生活雑誌の取材記事、記事広告の執筆。福祉の分野では介護士として高齢者施設に勤務。高齢者向け公共施設にて施設管理、生活相談を行なう。父親の看護・介護は38年間に及んだ。