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福祉・介護のある風景(2)父が父でなくなった時(後編)~橘 世理

昭和58年(1983)7月に脳内出血のために搬送され手術を受けた父は、言語障害、並びに、右半身麻痺となった。体を頭から下腹部まで真っ二つに分けた右側部分の右腕や右脚がまったく動かない。ベッドの中の父の右腕を少し持ち上げて離すとストンとシーツの上に落ちた。初めてやった時は今だけこの状態なのではなかろうかと思ったが、何度繰り返しても同じように落下するので事の深刻さにあらためて慄いた。

病院食は消化の良い物が提供された。トレイにはスプーンが用意されているので、利き手ではない左手でスプーンを持つが、父は激しく苛立ち、手掴みで食べてしまう。

この時の私は若いせいもあり、見識が及ばず、手掴みで食べる父を嫌悪し「スプーンで食べて」と何度も言った。今思えば脳を損傷し、思うように体を動かせない父に無理を強いたと悔いているが、食欲の塊となり険しい表情をしながら手掴みで食べる父を見るのは堪え難かった。

緊急搬送の日からかおよそ3か月が経過した冬の初めには、手術を受けた大学病院からリハビリテーションを受けられる総合病院へ転院した。今でこそよく聞くリハビリテーションという言葉だが、当時はまだ一般的ではなかった。

まずそこで父が受けたリハビリテーションは、立つことだった。立つこと、歩くこと、これができなければ自宅で生活ができない。今のようにQOLという言葉を聞くこともなく「家に帰ってから困りますよ」の医師と看護婦(当時は看護婦と呼んだ)の声だけが日々飛び交っていた。

(*註 QOLは、Quality Of Lifeの略。生活、生命、人生の質を意味する。QOLの向上は、これらの質を高め自分らしい生活を目指すこと)

生きる事に貪欲な父の意地が発揮され、みるみる身体機能は向上したが、どうにもほぼ完全麻痺の右半身は動かない。元のようには戻れないのだ。

父の帰宅が現実のものとなった頃「家の中で車椅子なんて無理じゃないの」と言った私に、母は「じゃあ、どうすればいいのよ!」と怒鳴り返してきた。

解決の糸口すら見出せない問題を口にした私が癪に触ったのだろう。車椅子のことも問題であったが、新たにベッドを買わなければならない(当時は布団生活だった)、転倒防止と自立歩行の為の策として手すりもつけなければならない、トイレは、風呂はどうすればいいのだろうかと、次々に問題が噴き出した。

まだ介護保険制度のない時代なので訪問介護も訪問診療も何もない。すべて自分たちでやらなければならない。「ずっと病院にいればいいのにねぇ」と明治生まれの髪結いの祖母は、わかばを吹かしながら、ぼそっと小さな声で呟いた。時折り、祖母は家族の本音を代弁してくれた。

(*註 わかばは、昭和41年(1966)に発売された煙草) 

父は拳のまま開かない右手を覆い隠す為、手袋を母に作ってくれと頼み、母は試行錯誤しながらどうにかそれを作った。

2か月後転院した病院から母の作った手袋を右手に装着して自宅に戻った父だが、すべての動作に四苦八苦した。家に帰りたい一心で猛練習をし、伝い歩きもできるようになり、杖も使えるようになったものの、右手と右脚が完全麻痺の体では、思うように動けないので眠る以外は常に苛立っていた。

例えばトイレの中は、こちらも何処に手すりが必要なのかわからないのでトイレの便座横にしか取り付けなかった。父がトイレに入った時「こ・れ・じゃ、立てないんだよ!もう!」言語障害のある父の大声が響き渡るのだ。

病院で聞き慣れていたが、家の中で聞くと父が倒れてから天地が逆さまになったような異常事態だと実感した。「ごめんね、そうだよね」と込み上げてくるものを抑えながら父を支えて立たせた。

父の動く方の左腕と左脚の力で体を立たせるには、便座の正面に手すりが必要であった。父が自分で便座から立つには、左腕を伸ばし、上半身を前後に揺らして、勢いをつけて正面にある手すりを掴む、掴んだら左腕と左脚に満身の力を込めて立ち上がるのだ。

手すりは親戚の人に設置してもらった。介護という言葉も聞かない時代、「まったくもう!俺は邪魔なんだろー」の父の叫びを浴びながら母は、父のスムーズな排泄のためにジャージの前部分を鋏で切って穴を開け、ファスナーを付けた。母はそんな事を来る日も来る日も甲斐甲斐しく繰り返していた。

「とことん生きてやる」と豪語した昭和一桁生まれの頑固で我儘な父は、生きる事に執着した。利き手ではない左手で文字を書く練習をし、毎日日記を書いた。年末になると翌年の干支の絵を小さな正方形の色紙に描き、知人や世話になっている人たちに配っていた。父が片手で描く絵や文字に誰もが深く感心する。色紙の干支描きは父の自慢でもあり生き甲斐になっていった。

75歳を過ぎてからデイサービスを勧めたが予想通り父は反発してそれを拒否し、80歳まで一人でバスに乗り、駅近くのコーヒー店で一服するのを愉しみとしていた。

自由を好む父の入浴介助のために私は午後3時半に終わる仕事を選んだ。職場を辞めたくても、老いる母の負担を考えると辞められなかったのは辛かった。入浴介助ヘルパーが来ない日、湯船に浸かる父に「お父さんは、幸せ?」と訊いてみた。父は私を見ることなく「別に」と言った。看護師に「おむつ替えて」と言われてからすでに36年が経っていた。

親の介護ができて幸せだったと言う人もいる。介護から逃げる人もいる。

私にとって父を介護するということは闘いだった。

何とどう闘ってきたのか、これから続く記事の中で、父には折に触れて登場してもらい、私が経験した介護の実際を伝えていきたい。

介護保険法が2000年に施行されて以来、すでに25年目となる。数多くの被介護者と介護する者達との経験と工夫が至るところで蓄積・共有されて、それに伴い、介護技術や介護業界は進歩し続けてきた。

しかし、同時に制度上の問題点や矛盾点、また、被介護者を抱える家族達の悩みや困難も依然として多く存在している。

この連載を通して、私なりの解釈や提案も披露していきたい。今後ともよろしくお願いいたします。

福祉・介護のある風景(1)父が父でなくなった時(前編)~橘 世理

橘 世理(たちばなせり)

神奈川県生まれ。東京農業大学短期大学部醸造科卒。職業ライター。日本動物児童文学賞優秀賞受賞。児童書、児童向け学習書の執筆。女性誌、在日外国人向けの生活雑誌の取材記事、記事広告の執筆。福祉の分野では介護士として高齢者施設に勤務。高齢者向け公共施設にて施設管理、生活相談を行なう。父親の看護・介護は38年間に及んだ。