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福祉・介護のある風景(6)転ばぬ先の杖(後編)~橘  世理

高齢者施設に勤務していたとき、利用者に事故が起きた際は、その状況がすぐに情報共有された。施設スタッフにとって利用者を守る事は最大の責務だからだ。

でも、どれほど気をつけていても事故は起きる。完全に防ぐことはできない。例えば骨折につながる転倒という事態が起きないように様々な措置を講じる。

このように、起こり得る先の出来事を予測して、今の状態・状況を改善していく、これが介護の世界の「転ばぬ先の杖」だと私は思っている。

杖は足である


具体的な例を挙げてみよう。

高齢者施設での勤務では、利用者と外出することがあった。近所のスーパーマーケットで買い物をしてその帰りに散歩をする。このときに、利用者には「手をポケットに入れないでください」と伝える。これは転倒したときに、自身の手で体を支えていくらかでも衝撃を軽減するためだ。

手をポケットに入れていると受け身は全く取れずに転倒の衝撃をそのまま体に受けることになる。これも転ばぬ先の杖だと思う。転倒は一瞬だ。できる限りの安全策を実施するべきなのだ。

私の89歳の母にもポケットに手を入れて歩かないように言っている。特に冬は手がかじかむので、手袋は必須だ。母は杖を使うので、グリップを持つ手が滑らないように、滑り止め付きの手袋を使ってもらっている。

このように先手を打っていくことが、事故を防ぐ事につながる。

杖のグリップと滑り止め付きの手袋


高齢者施設に勤務していたときヒヤッとした事が何回もある。

入浴介助の際に、着替えを行うため、利用者に車椅子から立ち上がってもらった。「手すりに掴まってください」と言った後に、脱衣行為に気を取られ、利用者がきちんと手すりに掴まっているか否かの確認を忘れてしまった。利用者の立位の不安定を感じたので手すりを見てみると、片手でしか掴まっていなかったのだ。その片手が滑ってしまえば転倒事故となる。これは私自身のヒヤッとした経験のひとつだ。

これ以降、利用者が両手で手すりに掴まったことを確認するということを肝に銘じるようにした。事前に確認することも「転ばぬ先の杖」なのだ。

(註:立位とは、真っ直ぐな姿勢のこと)

手すりと言えば、下の画像を見て欲しい。

父のために付けた手すり


これは歩行が困難になってきた父のために、親戚の人が通路に沿って付けた手すりだ。

この手すりを付けてもらった頃の父は、杖を突いても足が前へ出ないほどに体力が落ちていた。でも手すりに掴まると体全体が安定し、腕の力を頼りにして前に進むことができたのだ。今は、89歳になる母が「手すりがあるから安心」と言いながら、この手すりを頼りに歩いている。

そもそも画像のように通路に沿って長い手すりを付けたきっかけは、杖を突いて歩いていた右半身付随の父が、バランスを崩して転倒したことに因る。横にいた母が父の体を支えようとしたものの、支えきれずに母は父の体の下敷きになった。その時は、二人とも自力で起き上がることができず、異変に気付いた隣家の人に助けてもらい事なきを得た。

つまり、ここでは私たち家族は「転ばぬ先の杖」に気付けなかった。右半身不随の上に、高齢で老化が進んで手足の力が弱くなった父の歩行時に何が起こるか予想できなかったのだ。この事は今でも後悔している。

老化が進んだ人たちの事故とは何も転倒だけとは限らない。日常生活のあらゆる局面で事故は起こり得る。例えば、食事中にも事故はある。誤嚥を防ぐために、食事前に「パタカラ体操」を実施している高齢者施設もある。「パタカラ体操」とは、口を大きく開けて「パ・タ・カ・ラ」と発音することで唾液の分泌を促して、口や舌の動きも円滑にするための体操である。また、誤嚥防止のために、食べ物を小さ目に切る・刻むということもある。いずれも「転ばぬ先の杖」と言えるだろう。

(註:誤嚥(ごえん)とは、食べ物や異物を気管内に誤って飲み込んでしまうこと)

介護における事故は、いくら気をつけても十分ということはない。ヒヤッとすることや小さな事故はどうしても発生してしまう。しかし「転ばぬ先の杖」の数を増やしていくことで、大きな事故に至ることは少なくなるだろう。

在宅及び高齢者施設で介護に携わった者として、私は小さな事故が起きたり、ヒヤっとしたりした時、また不安を感じた時は何か改善策がないだろうかと考えることを習慣にしていた。「これは大丈夫だろう」と自分に言い聞かせている時は実は要注意で、危険を直視せずに安全だろうと思い込もうとしている事が少なくなかった。結果としてそれは、体力の落ちた高齢者に無理強いをさせて負担をかけてしまう可能性もある。

「転ばぬ先の杖」は、介護をする上で最も基本的な心構えの一つであると私は思う。


写真撮影:橘  世理

橘 世理(たちばなせり)

神奈川県生まれ。東京農業大学短期大学部醸造科卒。職業ライター。日本動物児童文学賞優秀賞受賞。児童書、児童向け学習書の執筆。女性誌、在日外国人向けの生活雑誌の取材記事、記事広告の執筆。福祉の分野では介護士として高齢者施設に勤務。高齢者向け公共施設にて施設管理、生活相談を行なう。父親の看護・介護は38年間に及んだ。