レスキューというと災害時によく聞くレスキュー隊を想像する。現場で人命救助を行う専門部隊だ。
今回の話は、レスキュー隊のような大きな活動ではなく、身近なところでのレスキュー、つまり日々の生活の中で起きる救助、救済について考えてみたい。
1 見ても素通りする冷たさに宿る怖ろしさ

人命救助は他人事か
殺伐とした世の中だ。これはSNSでもよく見かける言葉だが、実際の出来事を聞くとこの言葉が生々しくて怖ろしく感じる。これから書くのは、知人の体験談だ。出来事はふたつある。
ひとつ目は、ある町の駅前商店街で起きた。
それは真夏だった。知人が近所の駅前商店街を歩いていると、5メートルほど先の男性が左右にふらつきながら歩いていた。背が高く、細身、30代くらいの人だった。やがて左右に体が揺れるとそのまま膝から崩れ落ちて倒れた。
知人より前を歩いていた女性が「あらあら!」と声を上げた。知人は「大丈夫ですか」と駆け寄った。倒れた男性に意識はなく、白目剥き出し、口からは唾液が泡になったようなものを出していた。
熱中症か、それとも持病か、とにかく救急車を呼んだ。救急隊が到着するまで、知人と女性は、男性に声かけを続けた。
その間にそばを通り過ぎた人たちは30人以上はいた。しかし、そのうちのひとりも立ち止まらなかったそうだ。目もくれず通り過ぎてしまう人、一瞥をくれただけの人、大きく避けて通る人…、その人たちを見ていて、あまりにも冷ややかな態度に知人は怖ろしさを覚えて愕然とした。
近くの店舗の店員が、水の入ったコップを持ってきてくれたが、男性は飲める状態ではなかったそうだ。
ふたつ目の出来事は、JRのある駅で起きた。
知人は駅で、乗り換えや構内を案内する仕事をしていた。雨の日だった。改札近くのコンコースの真ん中でリュックを前に抱えた女性が足を滑らせて、後ろ向きに転倒した。
勢いよく倒れたせいで後頭部を切り、出血した。血は、みるみる間に床を染めた。転倒に気づいた知人が駆け寄り、女性に声をかけて、駅員へ連絡した。
ふと周りを見ると、倒れて頭部から出血する女性を、スマホを片手に持って撮影している人が5人もいた。怪我をした女性を心配する様子は微塵もなく、スマホを向けて撮影している。
知人は「撮らないでください!」と大きな声で行為を止めると、にやにや笑いながらカメラをしまったり、撮影できたかを確認しながら足早に去っていったという。
肖像権の侵害になる可能性が高い上に、怪我をした女性を助ける行動もなく、興味本位で平然とスマホを向ける態度に知人は憤慨したのだ。女性は、リュックにヘルプマークを付けていた。
この話を私にしてくれた知人は「日本人は、ここまで冷たくなかった」と言った。
これに近い言葉を、私は福祉関係者から聞いたことがある。昨今は、他人への興味や共感が薄れ、自分に降りかかるリスクや労力を想像することに意識は向くが、救命を考えることはないのだろうか。家庭や学校での救命教育も減っているのかも知れない。
2 ほどよいおせっかいを発揮する

介護シューズ
雨の日に傘もささずに歩いている高齢者を見かけた際は、認知症の徘徊を疑うことにしている。そんな時は迷わずに声をかける。なぜ傘がないのか、まずはこれを訊く。名前や家の場所を訊いてもあやふやならばすぐに警察へ連絡をする。
ほかにも、靴を左右違うものを履いている、バッグを持っていない、真冬なのに薄着で外を歩いている、このような場合も徘徊を疑う。
声をかけてみるとそれなりに会話が成立する人もいるので、すぐには徘徊を見抜けないこともある。しかし、多少なりとも心配や違和感を覚えた場合は、警察へ連絡をし、詳細を伝えた方がよい。家族が捜索願を出している場合もあるからだ。
私の親戚にあたる者は、家人が目を離した隙に外へ出てしまい行方不明となり、2日後に約14キロ離れた街の路上で倒れて亡くなっていた。歩いている途中でおせっかいをしてくれる人に出会っていれば、彼女の命は助かったかもしれない。
ある日、歩道を歩いていると明らかに体調が悪そうな人がいた。その女性に「大丈夫ですか」と声をかけてみたら「大丈夫」と返された。
ただ、どう見ても大丈夫だと思えず、家まで送ると言ったが、立ち上がることすらできなかった。ひとりでは歩けませんよと説得して、家族に電話をかけて迎えに来てもらった。
大丈夫ですか?と他人に声をかけられたとき、ほとんどの人は「ダメだ」とは言わないだろう。とくに人に迷惑をかけてはいけないと言われて育つ日本人は、自分でなんとかしようとする。
そこで私は「大丈夫ですか」と言わないようにしてみた。持病はあるか、転んだのか、食事はしたのか、気分は悪くないか、そのような事柄をひとつひとつ聞き出しながら適切な場所へと誘導する。必要なら救急車を要請し、警察の助けも借りる。
3 レスキュー精神を磨こう

見かけたら配慮や援助が必要
私は、交通事故の怪我で脚が不自由になって以来、ヘルプマークを携帯している。そして、電車に乗る時は、優先席を頼りに乗車するようにもなった。
障害がなかった頃はわからなかったが、優先席に座っていると、私と同じように優先席を頼りに乗車してくる人は数多くいる。高齢者、松葉杖の人、ヘルプマークやマタニティマークを付けている人もいる。
たとえ優先席や、ベビーカー・車椅子用のスペースが空いていたとしても、必要な人がいつ乗車してくるかわからないので、できれば優先席には座らない、ベビーカー・車椅子用スペースには立たないなどという配慮を皆にしてもらえればといつも思っている。
(註:ヘルプマークは、外見からわかりにくいが、配慮や援助が必要ということを周囲に知らせるためのもの)

AED: 心臓を正常なリズムに戻す医療機器
私は、消防署で市民救命士講習を受講した際に、AED(自動体外式除細動器)の使い方を教わった。人が倒れたとき、何をするのかといえば、呼吸と意識の有無を確認し「周囲の人に助けを求める」のだ。
意識がない場合は「AEDを持ってきて」と「救急車を呼んで」、このふたつを近くにいる2人に頼むことになる。自分は、胸骨圧迫(心臓マッサージ)をしなければならないからだ。
ところが、周囲に人がいない、いてもかかわりたくないので立ち去る、「そういう事はままあります」と講習担当の消防隊員が言っていた。その場合は、ひとりでやるしかないのだ。
上述のように胸骨圧迫(心臓マッサージ)は、AEDが届くまで同じ力で絶え間なく行わなくてはならない。ひとりではできないので、数人で交代する。これを考えると、人がいない、いても立ち去るというのは、大切な命が遠のいてしまうというとてもつらい状況になる。
地域のイベントで消防署がブースを設けることがある。怪我をしたとき、何かを吞み込んで喉に詰まらせたときなどの応急処置方法やAED操作方法を教えてもらえる。
このような機会も積極的に活用して、レスキュー精神に磨きをかけて欲しい。
以上のような具体例を挙げてきたが、ほかにも日常の中でふと疑問に感じたり、不安を覚えたりする事があれば、迷わずに小さな行動を起こしてみよう。
例えば、昼夜室内の電灯が点いたままになっている、郵便受けに手紙や新聞が入ったままになっているなど、いつもとは違う様子を見つけたら、近隣の人に声をかけたり、警察に連絡するなりしてみよう。
誰もが、無関心になることなく、レスキュー精神を発揮して、積極的に助け合える社会を築いていきたいものである。
写真:橘 世理

橘 世理(たちばなせり)
神奈川県生まれ。東京農業大学短期大学部醸造科卒。職業ライター。日本動物児童文学賞優秀賞受賞。児童書、児童向け学習書の執筆。女性誌、在日外国人向けの生活雑誌の取材記事、記事広告の執筆。福祉の分野では介護士として高齢者施設に勤務。高齢者向け公共施設にて施設管理、生活相談を行なう。父親の看護・介護は38年間に及んだ。