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感染者数は国家が制御できるものなのか? 確実に実行できる「病床の確保」こそ政府の責務である

重症化を防ぐワクチン接種が進んだことを受けてマスク着用義務や屋内交流の人数制限など新型コロナウイルスの規制を全面的に解除した英国で、新規感染者数の減少が続いている。規制を解除すれば人の接触が増えて感染が急拡大するという予想を覆すもので、BBCは「歓迎すべき驚きの逆転現象」と報じている(こちら参照)。

この現象をどう考えたらよいのか。

ワクチン接種さえ進めば規制を解除しても感染者は減ると結論づけるのは短絡的だろう(2回接種後に感染する事例が相次いで報告されている)。英国では学校が夏休みに入ったことや人々の行動パターンが変わったことなど複数の要因が指摘されているようだが、いずれにせよ、感染者数の増減はさまざまな要因が複雑にからみあって決まるとみるのが客観的な分析ではないだろうか(検査件数を減らすことで「見せかけの感染者数」を抑え込んできた日本のような場合もある)。

日本の為政者や専門家はこれまで、様々な要因が重なり合って決まる「感染者数」を抑えることを第一の政策目標に掲げてきた。マスコミも日々の「感染者数」に一喜一憂し、「感染者数」が増加するたびに人流を減らすことをめざして国民に自粛を迫る緊急事態宣言を出すべきか否かという議論にエネルギーを費やし、「感染者数」が減少に転じると緊急事態宣言をいつ解除するかという議論に明け暮れてきたのである。

私は当初から、検査数次第でいかようにも操作できる「感染者数」という数字を極めて懐疑的にみていた。もちろん流行具合を推し量る指標の一つではあるのだが、そればかりを過大評価すれば対策を見誤ると感じていた。とくに日本では「コロナ患者が急増して医療崩壊が起きることを防ぐ」という極めて不純な動機から、公衆衛生学の専門家や医療記者らがPCR検査数の抑制を声高に主張し、その結果、諸外国と比べて検査数は極めて少なく抑えられ、感染実態が覆い隠されるという経緯をたどってきたため、なおさら「見せかけの感染者数」に一喜一憂するマスコミ報道を冷ややかに眺めてきた。

しかも日本社会には当初から感染者に対する偏見が広がり、積極的に検査を受けようという機運をそいでいた。そのなかで政府が日々公表する「感染者数」に信用をおいてコロナ対策の方向性を決めてよいのか、大きく疑問を感じていたのである。

ここへきて検査数はすこしずつ増えてはきたが、先進諸国のように「いつでもどこでも何度でも」気楽に無料で検査が受けられる体制にはほど遠い。それでもこのところデルタ株の流行で「感染者数」が急増しているのだから、実際には桁違いに多くの感染者が実在する可能性があるだろう。

そもそも「感染者数」はさまざまな要因が複雑に重なり合って決まる指標である。PCR検査数を抑制している日本ではなおさら根拠に乏しい指標なのだ。そのように不確実な「感染者数の抑制」を第一の政策目標に掲げてきたこと自体に大きな「ウソ」があるのではないかーー英国で実際に起きている「驚くべき逆転現象」をみて、私は改めて感じたのだった。

もちろん「感染拡大防止」をめざす諸政策に意味がないと言うつもりはない。とりわけコロナウイルスの正体が不明だった当初や、デルタ株の解明が十分に進んでいない現時点において、行動自粛などによる感染拡大防止にできる限り取り組み、医療供給体制の整備や治療法の開発のために必要な時間を稼ぐ意味は大きいだろう。

けれども、ウイルス自体はこの世の中から消えてなくなることはない。あくまでも感染拡大防止は医療供給体制の整備や治療法の開発のための「時間稼ぎ」なのである。そのうえ、政府がどんなに素晴らしい感染拡大防止策を打ったところで、感染拡大防止の効果が上がるとは確実に言えないのだ。逆に無策でも突如として終息することもある。感染症とは本来、そういうものなのだ。だからこそ、感染拡大防止策は「基本的人権の尊重」という私たち人類が苦難の歴史を経て獲得した至上の価値とのバランスに十分に配慮して決定されなければならない。

人間の力では確実に制御するのに限界がある「感染拡大防止」に対して、人間がその気になれば確実に実行できることがある。それは「病床の確保」だ。

感染者数(治療が必要な患者数=需要)が急増しても、それを受け入れることができる病床数(スタッフを含む医療供給体制)が上回っていれば、医療崩壊は起きない。人間の力では制御しきれず当てにならない「感染者数(需要)」の抑制ばかりを追い求めるより、人間がその気になれば確実に実行できる「病床数(供給)」の確保に全力をあげることが、より確実な政策なのではないか。それこそ、国民から税金を集めて国民の生命を守る責任を背負っている政府の役割ではないのか。

私は当初からコロナ専用の巨大臨時病院を首都圏や大阪圏に開設して「病床の確保」を最優先にすべきだと主張してきた。実際に中国・武漢も米国・ニューヨークも感染爆発が発生した当初はただちに仮設施設を整備して病床数を確保し、医療崩壊を防いだのだ。しかし、日本政府がコロナ専用の巨大臨時病院を開設して病床数自体を大幅に増やす努力をした痕跡はほとんどない。

いくら巨大臨時病院をつくっても医療・看護スタッフがいなければ機能しないという反論が私のもとへたくさん寄せられたが、諸外国が当たり前のようにやっていることを日本だけができないほうが異常である。国家がその気になって税金を投入し破格の高給で医師・看護師を募れば、必要なスタッフをかき集めることはさほど難しくはない。実際に国民の反対を振り切って強行開催した東京五輪や、全国津々浦々で進むワクチン接種では、巨額の税金を投じて破格の高給で医師や看護師をかき集めたではないか。それに比べて首都圏と大辟圏にコロナ専用の巨大臨時病院をつくり、必要なスタッフを確保することが非現実的とはとても思えない。政府にやる気がないだけだ。

この国の一年半にわたるコロナ対策は、国家がその気になれば確実に実行できる「病床の確保」(=医療供給体制の拡充)を政策目標に掲げることなく、国家の力では制御しきれない不確実な「感染者数」(=需要)の抑制ばかりを訴えて国民に一方的に我慢を強いてきたのである。菅政権が打ち出した「重症以外は自宅療養(=入院拒否)」は、東京五輪の強行開催を機に感染爆発が発生して「感染者数」を制御しきれなくなりギブアップを宣言した棄民政策そのものだ。

政府の第一の責務は「病床の確保」(=医療供給体制の拡充)である。それを一年半も怠ったあげく、重症以外の入院を拒否するという棄民政策を平然と打ち出し、それでもなお政権にしがみつこうとする為政者たちを、私たちは許してよいのだろうか。

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