私の新聞記者人生は福島原発の事故抜きには語れない。
39歳で政治部デスクに抜擢された半年後に福島原発事故は起きた。当時首相だった菅直人氏とはそれまで連日のように電話で話す関係にあり、おそらく最も食い込んでいた政治記者であったろう。私は権力者の視線から原発事故に直面したのだった。
ところが、私は東日本が壊滅する恐れがあった大事故の実像を的確に報じることができず、政治報道そのものに限界を感じて調査報道専門の特別報道部デスクに転じた。そこで福島原発周辺で横行していた「手抜き除染」をスクープし、取材班を代表して新聞協会賞を受賞した。
その後、原発事故をめぐる「吉田調書」を独自入手した取材班のデスクも務めたが、政府が隠してきた歴史的文書を公にするという歴史的スクープであったにもかかわらず、当時の朝日新聞社上層部は安倍政権の反撃を受けて記事を取り消し取材班を懲戒処分するという日本のジャーナリズム史に残る大失態を演じた。
ここから朝日新聞は国家権力に迎合する新聞に変貌するのである。日本のマスコミ界が国家権力に屈した歴史的転換点ともいえる事件であった。
私もデスクとして責任を問われ記者職を外された。その後、朝日新聞を退社して独立し「SAMEJIMA TIMES」を創刊するに至ったのである。
以上の経緯は拙著『朝日新聞政治部』に克明に書き残している。詳しくはそちらをお読みいただきたいが、福島原発事故がなければ私はまったく違う記者人生を歩んだのは間違いない。
そういう意味で福島原発には人一倍思い入れがある。だからこの春、原発被害者訴訟原告団全国協議会の総会記念講演を依頼されたのは感慨深かった。
私は総会記念講演を引き受けたものの、いったい何を語ったら良いのか、正直迷ってしまった。原発被害者訴訟は全国で50くらいあり、この総会はそれら原告団から被害者の方々や弁護士らが参加してくる。
ただしそれぞれ別の裁判である以上、それぞれにさまざまな思いがあるだろう。福島の地を離れている人もいれば福島に残っている人もいる。被害の内容も政治的立場もさまざまだ。それぞれの立場の違いを超えて、「国の責任」を求めるという大義のもとに結束しているといっていい。
私は裁判の専門家ではない。大学では法律を学んだものの、新聞記者としては政治取材が長く、そのなかでも権力闘争(政局)の取材に明け暮れてきた。「国の責任」を問う裁判闘争について何が語れるだろうか。
いろいろ悩んだあげく、私はあくまでも「政治闘争」の視点から原発被害者訴訟について語ることにした。原発被害者訴訟にかかわる人々の多くは「裁判」に詳しくても「政局」の視点から、つまり権力者の視点から原発訴訟を考える機会は少ないと考え、その立場で講演したほうが参考になると考えたからだ。
権力者はつねに「分断して統治する」ことを考える。福島原発事故でいえば、避難区域で被害者を線引きして対応を切り分け、被害者を分断するのだ。それは沖縄政策にも重なる。米軍基地問題への対応によって各自治体への振興策に差異を設け、地域や住民を分断するのである。
福島や沖縄だけではない。国家権力が世代間対立も煽るし、諸手当に所得制限をつけて年収の差でも対立を煽る。すべては人々が政権批判で連帯するのを防ぐためだ。
これは一般市民に対してだけのことではない。野党対策も同様だ。日本維新の会に肩入れして野党分断工作を進めてきたのはその象徴といえるだろう。
裏を返せば、政権が最も恐れるのは、市民が立場の違いを超えて連帯することである。原発被害者がさまざまな違いを超えて連帯し、さらには他のさまざまな問題(人種、民族、性別、障害、貧困…)に直面する人々がテーマを超えて連帯することが最も怖いのだ。
本来は野党第一党がさまざまな問題に直面する人々を束ね、横のネットワークを広げて政権奪取のエネルギーに転換しなければならない。ところが、今の立憲民主党はそれらマイノリティーの連帯を主導するどころか、自民党や維新にすり寄り、国家的な立場を強める始末である。
裁判闘争はひとりひとりの人権を守る闘いである。政治闘争は多数派を形成して社会のあり方を変える闘いである。この両輪がかみ合った時、原発被害者訴訟は大きく動くだろう。
そんな思いを込めて語った1時間。主催者側がYouTubeで講演内容を公開している。ぜひご覧ください。