兵庫県明石市長として「日本一の子ども支援」を進めた泉房穂・前明石市長と、ローソン社長からサントリー社長に転じた新浪剛史・経済同友会代表幹事の物価高論争は、国会論戦よりも面白かった。「庶民代表の泉氏 vs 財界代表の新浪氏」といっていい。
仕掛けたのは泉氏。週刊誌で「財界のお偉いさんはスーパーで買い物したことがないから生活のリアリティがわからない」と挑発し、物価高で庶民が苦しむ中で賃上げを進めない財界を痛烈に批判した。
新浪氏は記者会見で「元ローソン社長ですからね。元明石市長って知らないけど、失礼なこと言うなって」と猛反発。「サントリーの社長でもあるわけで、スーパーにも行くし、コンビニにも行く。ああ、高くなったなあ、って印象は持ってるし、そういう発言をする意図がよくわからない」とまくし立てた。
これに対し、泉氏はX(ツイッター)で「論点は『スーパーに行くかどうか』ではない。『スーパーでの値段を見て、買い物を躊躇したりしますか」という論点だ。庶民は『ああ、高くなったなあ』ではなく、高くて買えない状況だ」と再反論した。
まさに庶民の声を代弁する泉氏と、財界の声を代弁する新浪氏の真っ向対決である。ここに現代日本の政治の本当の対立軸があるといっていい。
永田町では与野党が憲法改正や安全保障をめぐって左右のイデオロギー対立を演じてきた。自民党の選挙通の間では「日本社会は右が3、左が2、無関心層が5」といわれ、左右対決だと「投票率5割で3対2で自民党が競り勝つ」という図式が成り立つ。自民党は常に選挙が近づくと憲法改正や安全保障を争点に掲げ、左右対決に持ち込んできたのだ。
一方、自民党がいちばん恐れるのは、「大企業・富裕層vs庶民」の上下対決の構図になることである。自民党は元来、財界と密接な関係になり、上下対決となると「上」(上級国民)の代弁者とならざるを得ない。だが、有権者の数では「下」(庶民)が圧倒的に多いから、上下対決に持ち込まれることは絶対に避けたいのだ。
泉氏はそれを承知で、あえて経団連や経済同級会など財界を挑発する発言を続けている。上下対決に持ち込み、自らを「庶民代表」に位置付けることこそ、明石市で「市民派」を名乗り、市議会や市役所をすべて敵に回しても、前例のない子ども支援を実現させてきた政治手法の根幹なのだ。
本来は野党第一党の立憲民主党が「庶民派」の先頭に立ち、財界を敵に回して上下対決に持ち込めばよいのだが、立憲は財界(あるいは財界と緊密な連合)にすり寄り、むしろ左右対決の構図に持ち込まれて敗れることを繰り返している。
打倒立憲を掲げる日本維新の会も立憲との差異を示すため、安全保障政策で自民党より「右」を強調しており、上下対決よりも左右対決の様相を強めている。
自民党も立憲も維新も「下」(庶民)の声を代弁していないなかで、庶民派として左派から生まれたのがれいわ新選組であり、右派から生まれたのが参政党や日本保守党であると理解すれば、新興勢力が乱立する今の政界の状況が理解しやすいだろう。
野党再編で庶民派が結集し、上下対決の選挙構図が実現することを自民党は最も恐れている。左右対決を煽って野党を分断するのが、自民党にとっては最適の政権延命策なのだ。
このような政界のこう着状態を打ち破るには、泉氏のように財界を敵に回して上下対決を演出するのがよい。泉氏が財界を挑発する一連の発言は、「下」の勢力を結集させる野党再編を視野に入れたものだろう。
フランス革命は自由・平等・博愛の理念から生まれたわけではない。ルイ16世やマリー・アントワネットの豪勢な生活に腹を立てた庶民たちの暴動から始まったのだ。つまり上下対決である。
明治維新も当初は「幕府=開国派 vs 薩長=尊王攘夷派」の左右イデオロギー対決で始まったが、紆余曲折を経て薩長の指導者たちは文明開花へ舵を切った。西郷隆盛、大久保利通、伊藤博文、山縣有朋ら下級武士が大名や家老や上級武士を抑え込み、政権中枢へ躍り出たのである。そもそも左右対決は見せかけで、真の対立軸は階級闘争(上下対決)にあったといえるだろう。
さらに昔、江戸時代の「打ち壊し」も貧富の格差に憤る庶民の反乱といっていい。
今の言葉でいう「上級国民」たちが最も恐れるのは、庶民の怒りである。そこで「金持ち喧嘩せず」という言葉が語り継がれてきた。
もともと財界人がいちばん恐れていたのは、庶民の間で「金持ち批判」が高まることだった。だから財界人は寄付などを通じて社会貢献し、庶民から憎まれないように振る舞ってきた。そして政治的発言は控え、目立たないように金儲けに徹してきたのだ。それが商売人の身のこなしだった。
だが、新自由主義が席巻する近年は、様相が変わってきた。財界人が表舞台で政治的主張を唱え、弱肉強食の姿勢を隠さなくなってきたのだ。新浪氏の泉氏への反論は象徴的事例といえるだろう。
庶民の怒りが爆発することが減った結果、財界人たちが庶民を恐れなくなったのだ。
だが、この物価高で、庶民の我慢の限界が近づいていると私はみている。「泉房穂人気」はその前触れであることを、新浪氏は軽視しているのではないだろうか。
泉氏の挑発に乗るかたちで新浪氏が反論したことは、泉氏の術中にはまったというのが私の見立てである。
さて、日本社会はこの先、どこへ向かうのか。