3連休最後の9月20日は晴天に恵まれ、都心は人で溢れていた。行楽地も大賑わいだったようだ。政府が緊急事態宣言を出して人流抑制を訴えていることなど、街ゆく人々は誰一人として気に留めている様子はなかった。
統計不正、虚偽答弁、公文書改竄…政治家や官僚のモラルは壊れきっている。縁故政治、無駄遣い、中抜き…権力中枢は腐り切っている。そしてコロナ危機で露呈した行政崩壊、医療崩壊。救えるはずの命が行政の無為無策で失われていく。上級国民だけは確実に治療を受けることのできる理不尽さ。誰も責任をとることなく国民に一方的に我慢を強いる政治。
そんな為政者の言葉に耳を傾ける国民はよほどのお人好しだろう。
政府に真っ向から抗議するのではなく、政府が何を言っても聞き流すーー「緊急事態宣言の完全無視」は日本人らしいレジスタンスのかたちなのかもしれない。
人流はほとんど減っていないのに、感染者数は急に減った。いったい人流と感染者数はどういう関係にあるのか。ほんとうに人流を抑制する必要があったのか? 人流抑制を主張して国民の自由を制限してきた菅内閣の閣僚や尾身茂会長ら専門家からはまともな説明はない。
ワクチン接種が進んだから人流は減らなくても感染者数が減ったと言う意見があるが、本当だろうか。ここまで感染者数を急減させるほどワクチンの接種が進んだとはいえないとの指摘は多い。実際にワクチン接種率の高低にかかわらず、全ての都道府県で感染者は大きく減少に転じているのだ。
政府の専門家と称する人々はほんとうに科学に徹して見解を打ち出しているのか。疑念は増すばかりだ。
人流抑制やワクチン接種によって感染者数が減ったとは言えないという見解を示している記事を私のツイッターで紹介したので、参考にしてほしい。
このツイートでも示しているが、私はウイルスの感染者数の増減というものを人間の力でコントロールするのはそもそも限界があると考えている(それは人間の過信であり傲慢であるという立場だ)。どんなに対策を打ったところで増えるときは増える。逆に何も対策を打たなくても終息することもある。ウイルスとはそういうものだ。人類が直面した数々のパンデミックの歴史が証明している。
もちろん、何の対策も打たなくていいと言っているわけではない。感染が急拡大して死者が続出するような場合、一時避難としてロックダウンに踏み切り家に閉じこもることは有効であろう。手厚い補償とともに外出自粛・営業自粛を徹底することも必要な局面があるだろう。しかしこれらの対策はあくまでも緊急措置だ。ダラダラと続けてむやみに人々の自由を奪うべきものではない。あくまでも私たちの命を守る医療体制を整備するための時間を稼ぐ緊急措置なのである。
ところが、日本政府はこの一年半、緊急避難措置である人流抑制ばかりを訴え、私たち国民の自由を制限することを繰り返すばかりで、政府の本当の役割である医療体制の整備を怠ってきた。いつでもどこでも誰でもPCR検査を受けられる体制を整備して感染者を早期発見し、コロナ専用の巨大臨時病院(野戦病院)を開設するなどして誰もが確実に治療を受けられる医療提供体制を整備する責任を放棄してきたのである。その結果、欧米より感染者数は少ないのに医療崩壊が起きるという情けない失態を招き、救えるはずの多くの命が失われた。菅首相ら閣僚と尾身会長ら専門家が主導した無責任なコロナ失政が多くの命を奪ったのである。
感染者数は人間の力ではコントロールしきれないのに対して、検査体制や医療体制は人間がその気になれば確実に整備できるものだ。政府が強い意思を持って税金を惜しげもなく投入すれば確実に実行できる。
しばしば「病院ができても医療スタッフがいない」という反論があるが、これは嘘だ。東京五輪には莫大な税金を投入して大勢の医療スタッフを集めたではないか。ワクチン絶種にも莫大な税金を投入して全国津々浦々まで医療スタッフを集めたではないか。医療崩壊が深刻な首都圏や関西圏にコロナ専用の野戦病院を開設することよりも、東京五輪やワクチン接種に医療スタッフを優先的に配置した結果、コロナ専用の野戦病院のスタッフを集めることができないというだけの話である。
菅首相や尾身会長はなぜ人間の力ではコントロールしきれない「感染者数」ばかりを強調し、その気になれば確実に実行できる「検査・医療体制」の整備に全力をあげないのか。
理由は簡単である。感染者数はどんなに増えても、その理由がはっきりしないということで、閣僚や専門家は責任を免れるからだ。一方で、検査・医療体制の整備は政府が本気を出せば確実に実現できるものゆえに、実行できないときには閣僚や専門家の責任が問われる。だからこそ、彼らは検査・医療体制を政策目標に掲げたくないのだ。
マスコミは彼らの主張を垂れ流すばかりで、検査・医療体制がコロナ対策の本質であることを指摘しない(よりによって当初は検査抑制論の旗を振った)。かくして日本のコロナ対策は最も重要な検査・医療体制の整備とはまったく別の、あさっての方向をめがけて走ってきた。政治家や専門家が間違った針路を指し示してきたのである。国民はずいぶんと長い間、無駄な努力と無駄な税金を払わされてきたのだ。
人流抑制と同じことはワクチンにもいえる。
ワクチンが重症化防止に効果があることは事実だ。感染予防にも一定の効果はあるだろう。しかし、その効果がどれほど続くかはわからない。半年もすれば大幅に効果は落ちるともいわれる。今後登場する変異株に効果があるかどうかもわからない。実際、最も早くワクチン接種が進んだイスラエルの感染爆発をみると、ワクチンの限界は明らかだ。
これから3、4回…と延々と接種を続けていく必要があるのではないか。そんなに何度も接種を続けて本当に健康被害はないのか。いったいどれだけの税金をワクチンに注ぎ込むのか。ワクチン政策から転換する国も手始めた。すくなくとも「ワクチン一本足打法」は世界的にはほぼ否定されている。
そもそも副作用の懸念は消えない。接種直後に発熱などの症状とは別に、接種後に死亡するケースも相次いでいるのに「因果関係は不明」という状況で政府は国策として接種を進めている。平時の医療ではありえないことだ。長期的な健康被害の可能性も絶対にないとは言い切れないのである。未知のウイルスに対する未知のワクチンなのだから、わからないことがたくさんあるというのが誠実な科学的態度である。
ところが、政府やマスコミは接種後の死亡事例について個別に丁寧に説明せず、ワクチン接種に合理的な不安を抱く人々の声と、極端な「ワクチン陰謀説」を一緒くたにして「デマ」とレッテルを貼り、とにかくワクチンをを打て、打て、の一本槍だ。「ワクチンには効果がある。しかし、わずかかもしれないがリスクもある。ひとりひとりが自分自身にとってメリットが大きいか、リスクが大きかをよく考えて接種の有無を判断すべきだ」というのがもっとも科学的な態度なのに、首相の掛け声にあわせてなりふり構わず国策としてワクチン接種を進める政府の姿勢は、私の調査報道の経験に基づく第一感としては、表には出せない裏の動機があるのではないかとプンプン匂う。
ワクチンもロックダウンと同様、パンデミックで死者が続出する場合の緊急措置として、あるいは、医療体制を整備するまでの時間を稼ぐ措置として、ある程度のリスクを覚悟して活用すべきものである。それが科学的・合理的な対応だ。有効なコロナ治療法がみつかり、「早期発見・早期診断・早期治療」さえできればほぼ確実に命を救えるというところまでコロナ医療が進展している今、命を落とすかもしれないリスクを背負って全国民に一律にワクチン接種を進める政策が科学的とは私には思えない。ひとりひとりの身体への適性を判断し、それぞれの人にとって接種するメリットとでリスクを慎重に見極めて接種の有無を判断するのが本来の医療のあり方ではないか。むしろワクチンの一律接種に費やしている膨大な税金とマンパワーをコロナ患者の検査・医療体制の整備にまわすことが、合理的な政策判断ではないか。
政府が検査・医療体制の整備よりもワクチンの一律接種を優先する理由は、巨額の税金を投入する医療・製薬利権にあるとしか思えない。実際に、科学的根拠の乏しいワクチンパスポートの導入に前のめりになり、マイナンバーカードやGOTOトラベルと連動させたり、新しいアプリなどのシステムの導入を目指したりする政治家や官僚の姿を目の当たりにすると、「これは単なるワクチン利権では?またも中抜きか?」という思いを強くする。
ワクチンも人流抑制と同様、検査・医療体制を整備するまでの時間稼ぎにすぎない。あくまでもコロナ対策のひとつの手段なのだ。医療行政の本質はひとりひとりの命を守る検査・医療体制の整備である。それを誤魔化してコロナ対策を口実とした利権拡大に走る国家権力の動向には要注意である。