薩摩では「鮫島」はありふれた姓である。鹿児島を訪れると「鮫島工務店」「鮫島医院」といった看板が目に飛び込んでくる。
私の姓は「サメジマ」と濁るが、薩摩では「サメシマ」と濁らない。
父方の祖父が鹿児島出身だが、戦前に薩摩を離れて満州に渡った。敗戦の混乱期に祖母の実家がある四国へ引きあげた。私が生まれた時はすでに「サメジマ」だった。元来は「サメシマ」だったのか、いつから「サメジマ」になったのか、よくわからない。
朝日新聞記者時代に薩摩を取材で訪れた際、地元の方が「薩摩の人は心が澄んでいるから名も濁らない。薩摩を捨てて東京へ出て行った人は心が濁るから名も濁るのよ」と笑って教えてくれた。
真偽のほどは定かでないが、私は薩摩を訪れた際は必ずこの話を自己紹介で披露している。「私の家は薩摩を離れ、心も名も濁ってしまった。私は政治を長く取材し、ますます心が濁ってきた」と。薩摩の人々にはいたって評判がいい。
昨年10月に鹿児島県保険医協会に招待されて鹿児島市内で講演した際もこの話から切り出した。案の定、うけた。懇親会でも名前のことが話題になった。
そこで登場したのは、私と同姓同名である宮崎大学の鮫島浩学長のことである。
鮫島学長は薩摩の人である。もちろん「サメシマ」と濁らない。鹿児島の名門・県立鶴丸高校の出身だ。
私との懇親会に出席した保険医協会の医師のほとんどは鶴丸高校OBだった。彼らによると、高校時代はバスケットボール部の花形選手で、文武両道、憧れの的だったという。東大と鹿児島大の受験に合格し、東大を振り切って鹿児島大医学部に進学。産婦人科医となった。
保険医協会の医師の多くも鹿児島大医学部OBで、鮫島学長には尊敬の念を抱いていた。それで私にも最初から親しみを持って接してくれたのかもしれない。
私は鮫島学長の存在を知っていた。朝日新聞を2021年に退職してまもない頃、自分の名前をグーグルで検索するといちばん上に出てくるのが鮫島学長を紹介する記事だったからだ。とても温和な表情の医師で、教育者としても誠実な人柄が伝わってきた。
その後、私は政治ジャーナリストとして活動をはじめ、拙著『朝日新聞政治部』が大きな反響を呼ぶと、グーグル検索では私に関する記事も上位に出てくるようになった。当初は私のリベラルな論調を批判して「売国奴」などとののしるものも少なくなかった。まさに「心の澄んだ産婦人科医のサメシマ」と「心の濁った政治記者のサメジマ」がネット上で交錯していたのだ。
私はそのような批判に慣れているのでさほど気にしなかったが、一度もお会いしたことにない鮫島学長には申し訳ない気持ちでいっぱいになった。同姓同名の宿命といえばそれまでだが、鮫島学長の名声を傷つけることになりはしないかと心配していたのである。
保険医協会の医師たちにこの経緯を伝え、「鮫島学長に申し訳ないとお伝えください」とお願いすると、皆さん笑って快諾してくれた。
昨秋の鹿児島講演の話を持ち出したのは、鮫島学長の再任が内定したという宮崎日日新聞のネットニュースを目にしたからである。任期は2027年3月末まで。さらなるご活躍が楽しみだ。
私の鹿児島講演は以下のユーチューブで公開しています。ぜひ。