河野太郎ワクチン担当相が自民党総裁選の先頭を走っている。これに対抗して、世帯交代を嫌うキングメーカーの安倍晋三前首相は岸田文雄前政調会長と高市早苗前総務相の二・三位連合で決選投票での逆転勝利を目論んでいる。勝敗の行方は予断を許さない。
河野氏が勝利を呼び込むのに必要なものは何か。プレジデントオンラインに『「安倍支配をぶっ壊す」河野太郎が首相になるためにはそう宣言する必要がある』を緊急寄稿したのでご覧いただければ幸いだ。
きょうのサメタイでは、河野太郎氏の父・洋平氏のことを書く。
84歳の洋平氏が9月15日、息子の総裁選出馬に居ても立ってもいられず、かつて「参院のドン」と呼ばれ今も参院自民党や竹下派に影響力を残す青木幹雄氏の事務所を訪ね、太郎氏への支援を求めたという記事に接した(読売新聞)。
河野太郎氏の祖父・一郎氏は池田勇人首相の有力な後継者とみられたが、池田首相が後継指名したのは佐藤栄作氏だった。父・洋平氏は自民党が野党に転落した1993年に総裁に担がれたが、自民党が社会党の村山富市首相を担いで政権復帰した後の95年総裁選で出馬断念に追い込まれ、首相になることはできなかった。
河野家から首相を輩出することは、河野家三代の悲願である。洋平氏が息子の太郎氏の総裁選出馬に並々ならぬ期待を込めていることは想像に難くない。
ただでさえ父と息子の関係は複雑なものだ。地盤を受け継ぐ政治家一家では、なおさらのことだろう。
安倍晋三氏は父・晋太郎氏(元外相)とはしっくりいかない関係だった。晋太郎氏が息子の不出来を政治記者たちにしばしばぼやいていたという話を、私は政治部の先輩からよく聞いた。安倍氏が祖父・岸信介氏(元首相)に強烈なシンパシーを抱いたのは、父に対する複雑な感情の裏返しであったかもしれない。
河野家も例外ではない。
河野一郎氏は神奈川県の豪農に生まれ、戦前から政界に跋扈していた豪腕政治家である。戦後は自民党を代表する党人派としてその名を轟かせた。官僚派を率いる吉田茂元首相(麻生太郎氏の祖父)の不倶戴天の政敵と言われ、鳩山一郎氏(鳩山由紀夫氏の祖父)を支えた。1955年の自民党結党に参画し、大派閥の河野派を形成。一族郎党主義を信条とし、仲間は徹底的に庇護するが、敵は徹底的にやっつけるタイプの政治家であった。
その息子・洋平氏は、強権的な父親に強い反発を抱いたようだ。1967年に地盤を受け継いで自民党公認で当選して河野派の流れをくむ中曽根派に入り「自民党のプリンス」と呼ばれたが、1976年には自民党を離党して新自由クラブを結成し、党首に就任。ラジオのパーソナリティを務めたり、映画に出演したりするなど父と対照的にリベラルな政治家像を作り上げた。
1986年に新自由クラブは解党し、自民党に復党すると、タカ派の中曽根派ではなく、ハト派の宮沢派(宏池会)に身を寄せた。宮沢喜一氏は「宏池会のプリンス」と言われた加藤紘一氏よりも洋平氏を気に入っていたようである。洋平氏は宮沢内閣で官房長官に起用され、従軍慰安婦に旧日本軍が関与したことなどを認める「河野談話」を発表した。
自民党が下野した1993年には自民党総裁選に勝利。自民党は河野総裁のもとで社会党の村山富市氏を首相に担いで自社さ政権を誕生させ、洋平氏は副総理兼外相として入閣した。村山首相は途中で洋平氏に首相禅譲を打診したが、最大派閥・小渕派の猛反対で実現しなかった。洋平氏は95年総裁選で再選を目指したが、宮沢派のライバルであった加藤氏が小渕派の橋本龍太郎氏の支持に回り、不出馬に追い込まれる。史上初の「首相になれなかった自民党総裁」の汚名を背負うことになった。
1998年末に加藤氏が宏池会会長を宮沢氏から受け継ぐと、洋平氏は麻生氏らと派閥を離脱し、小グループ「大勇会」を結成(今や党内第二派閥となった麻生派の源流)。その後、外相や衆院議長を務め、自民党が再び下野する2009年衆院選を機に政界を引退した。
その息子・太郎氏は父・洋平氏の自由奔放な側面を一部受け継いだものの、政治信条は祖父・一郎氏に近いと言われている。C型肝炎による肝硬変が進行していた父に肝臓移植を受けることを進言して自らドナーとなったのは有名な話だが、一方で、自民党を代表する護憲派であった父の政治信条を公然と否定したこともある。
政治信条の違いを超えて、息子の総裁選出馬に居ても立ってもいられなくなる父の姿は、名門・河野家が本質的に極めて強い保守性を帯びていることを物語っているといえるだろう。
私が朝日新聞政治部の記者として河野洋平氏をはじめて取材したのは2000年、彼が外務大臣の時だった。政治記者2年目。首相官邸の小渕恵三首相番から外務省担当に配置換えとなり、外務大臣の番記者になったのである。
洋平氏はすでに自民党総裁を歴任した大物政治家だったが、彼を首相に押し立てようという空気は自民党内にもはやなく、彼自身もそのような野心をたぎらせているという風ではなかった。
私は番記者になるにあたり、彼の政治家としての歩みを頭に入れた。自民党を飛び出して新自由クラブを結成したこと、復党後はハト派の宏池会に所属したこと、野党・自民党の総裁として政治改革の与野党合意を進めたこと…それら華々しい政治キャリアからして、記者に対してオープンマインドな政治家ではないかとひそかに想像したのである。
期待は見事に裏切られた。記者会見以外の場ではほとんど口を聞いてもらえなかった。一般的な政治記者の所作として、私は朝晩、洋平氏が暮らす東京・高輪の議員宿舎で待ち構えたが、取材として意味のある会話が成立した覚えがない。週末に神奈川県小田原市にある邸宅へ「夜回り」取材に出かけたこともあったが、まったく相手にされなかった。
私は党派や派閥、政治信条を超えて政治家の懐に入り込むのが比較的得意な政治記者だった。でも、洋平氏はさっぱりダメだった。つねに気品を欠くことのない立ち振る舞いのなかにも政治記者に対してはじめから強力なバリアを張っている気がした。胸襟を開いて受け入れる気配がまるでなかった。
今思えば、洋平氏は朝日新聞を代表する政治記者である若宮啓文氏(のちに論説主幹・主筆)と非常に懇意にしており、朝日新聞の記者はそれで十分だよと思っていたフシがある。政治記者2年目の私に今さら政治のあれこれを一から話す気になれなかったのかもしれない、とにかく彼の眼中に私はなかった。政治記者は同業他社だけでなく自社の先輩記者もライバルとなる厳しい現実を見せつけられたのだった。ほろ苦い思い出である。
それでも毎日密着して顔色や声色にじかに接して感じることはあった。リベラルな政治姿勢とは裏腹に、つねに気難しさが漂う政治家だった。新自由クラブを旗揚げした若き日々は気さくな側面も見せていたことだろう。その志は半ばにして挫折し、自民党に立ち戻り、総裁に担がれたものの首相の座には届かず、紆余曲折の政治人生を経たことと深く関係しているのかもしれなかった。政治への情熱を抱き続けているというよりも、どこか達観して政界に身を置き続けているという、やや屈折した内面を強く感じたのである。
彼はリベラルな政治信条を掲げながらもその根本は誇り高き名門の世襲政治家であり、格式や序列や伝統を重視する保守政治家の側面を強く持ち合わせているというのが私の結論だった。それは破天荒に見える息子の太郎氏にも受け継がれている家風なのかもしれない。
駆け出し政治記者の「河野洋平観」はもちろんその一段面に過ぎないであろう。だが、その洋平氏が84歳にして息子の総裁選出馬に居ても立ってもいられず、都内に出てきて青木氏に支援を求めたという記事に接し、政治記者としてまったく歯が立たなかった20年前が懐かしく思い出され、その記憶をここにしたためたくなった次第である。