財務省はなぜ財政健全化にこだわるのか。最近、さまざまな講演でこのテーマについて話しているのだが、たいへんわかりやすいと評判なので、ここでも紹介したい。
自国通貨建て国債を大量発行しても財政破綻することはないというのは財務省自身も認めている。「国債=国の借金」という金本位制時代の常識は崩れつつあり、自国通貨を持つ国はハイパーインフレにさえ注意すれば大胆な財政出動が可能だという「積極財政」の考え方が今や世界の主流となりつつある。
コロナ禍で先進各国が大胆な財政出動で景気を上向かせたことが(日本はこれら先進各国と比べると今なお緊縮財政で景気低迷)積極財政論をますます勢いづかせている。
それでもなお、財務官僚たちが財政健全化にこだわる理由として持ち出すのは、軍事費との関係だ。
戦前、大蔵省(現財務省)は軍部に屈して大量の国債を発行して軍事費増大を許してしまい、それが戦争への道につながった。二度と戦争が起きることを防ぐためにも、軍事費増大を回避する財政規律が不可欠であるという論理だ。
たしかに財政規律があるからこそ、軍事費増大や環境破壊をはじめ、モラル崩壊を招く大判振る舞いが抑制されているという点は否定できない。裏を返せば、戦後日本においては財務省主導の財政規律が予算の公正な使用を守る唯一の仕掛けであったといえるであろう。
一方で、財政健全化の議論になると財務官僚たちが急に「平和主義者」になることに私はとても違和感があった。これは財務省に昔から語り継がれてきた「財政規律を必要とする論理(言い訳)」であることは明らかだ。
「国債=国の借金」のいう旧来の常識が世界で崩れつつあるなか、財務省にとって最後の砦は「戦争を防ぐための財政規律」という論理なのであろうが、そのために「公正な財政出動」〜誰一人見捨てない社会を実現するための教育無償化や社会保障の充実など〜まで否定されるのは、理屈にあわない。
軍事費増大には財政法などの規定で歯止めをかけ、教育無償化や社会保障の充実には大胆に財政出動していくというようなやり方は可能であり、財務省の主張は説得力に欠ける。財務省の査定に頼らずとも、公正な予算の使用を担保する手法はいくらでもある。本来はそれを行うのが国会の役目だ。
財務官僚たちが財政健全化にこだわる本当の理由。それを知ることがまずは重要だ。
財務省の本音を探るのは、そう難しいことではない。財政規律を棚上げして、積極財政による大胆な財政出動が実現したらどうなるかを考えればいい。国債を大胆に発行し、予算をふんだんに配分することができるとしたら、どうなるか。財務省の政治力が格段に落ちるのだ。
財務省の力の源泉は、予算をつけることにある。みんなにまんべんなくつけるのではない。財務省にペコペコ頭を下げてきた人々(財務省の天下りを受け入れた企業や、財務省のいうとおり消費税増税を推し進めてくれる政治家に献金する企業など)に特別に予算をつけることにこそ、財務省が政界に君臨する秘訣があるのだ。予算が余るほどあるのなら、誰も財務省にペコペコしなくなる。
だからこそ、財務省は予算を絞る。予算が限られていたほうがいい。そこで優先順位をつけることで、財務省は威張ることができる。そこにこそ、財務省が積極財政を嫌い、緊縮財政を進める本質的な理由がある。つまり自分達の政治力を守るために、財政健全化を進めている。(その結果、多くの弱者を切り捨てている!)
課税も同じである。財務省にペコペコする企業などには特別に減税してあげることで報いる(企業開発減税、法人税減税、金融分離課税などはすべて特別優遇措置)。財務省が消費税にこだわるのは、うすくひろく課税する消費税は(一部軽減税率は除いて)他の税制よりも一部を優遇することが難しく、税収確保としては好都合なのである。消費税で財源を確保し、法人税や所得税は特別扱い・例外扱いを細かく実施して、財務省に従順な人々を優遇してあげるのだ。それによって財務省の政治力は格段に増すのである。
つまり、財務省は自分達が威張るために財政規律を主張しているというのが、長年おおくの財務官僚を政治記者として取材してきた私の確信である。
新聞社で財政や税制の記事を書くのは大概、経済部の記者だ。政治部のエリートは首相官邸、社会部のエリートは東京地検特捜部を担当して取材先と一体化するのだが、経済部のエリートは財務省を担当し、財務省と一体化する。それが出世への道だ(大半の新聞社の経済部長は財務省記者クラブを経験しているだろう)。
財務省が財政健全化を唱える本当の理由を察しながらそこに触れないのか、本気で財務省の言い分を信じているのかわからないが、経済部は財務省の教科書のような「軍事費増大を防ぐ」「国債を大量発行したら財政破綻してしまう」という言い分をそのまま垂れ流し、財政健全化の重要性を国民に信じ込ませ、消費税増税の必要性を植え付ける役割を果たしてきた。まさに財務省の広報機能を一手に背負ってきたのである。
日本の財政政策が硬直化し、不況のなかでも消費税増税が繰り返され、国民生活が大打撃を受け、貧富の格差が拡大・固定化してきた責任の多くは、財務省と一体化した各新聞社の経済部にあるといっても過言ではない。彼らは何か新しい政策が浮上すると財務省の意向に沿って「財源論」を理由にそれを否定し、さまざまな政策の芽をつぶしてきたのだった。
子ども政策に大胆に予算を投入して人口を増やし税収も増やしたとして全国から注目を集めている兵庫県明石市の泉房穂市長が7月21日のツイッターで、私と同じような問題意識を提起していた。
子ども政策の予算倍増を財源論の立場から困難視している朝日新聞記事に泉市長は猛反発した。明石市では子ども予算倍増を実現しているし、国全体でも国債発行すればすぐにできると指摘し、「誤報はやめていただきたい」と強く批判しているのだ。私も同感である。
この記事は経済部の財務省担当が書く典型のような記事である。日本の経済財政記事にはいつも財務省担当のこのような「財源論からみて難しい」という趣旨の記事がつく。これらはすべて「誤報」であり「財務省のプロパガンダ」だ。
明石市ができたように、政治が本気を出せば、実現できない政策などほとんどない。いざとなれば大胆に国債を発行して資金を調達すればいいのである。実際にコロナ対策では前代未聞の巨額予算を国債を発行してつけたではないか。普段からそれをやらないのは、財務省が力の源泉を失うので、やりたくないだけである。
なのに自公与党だけではなく、立憲民主党や共産党など野党も財務省のつくった財政規律の土俵の上で議論している。愚かなことだ。それほどまでに財務省と新聞社が一体となって進めた「財政は収支を均衡させなければならない」というプロパガンダは日本の隅々まで浸透したのである。
そろそろ財務省の権力維持のための財政健全化や消費税増税に付き合わされるのはやめよう。財務省のプロパガンダの新聞記事を信じるのもやめよう。経済政策というものは、もっと自由なのだ。予算は財務省のものではない。国民のものだ。