れいわ新選組がいま直面している混乱は、単なるスキャンダルや一時的な内紛ではない。政党という組織の根幹に関わる問題が、一気に噴き出した「構造的危機」と捉えるべき局面に入っている。
震源は、いわゆる「秘書給与詐取」問題だ。政策秘書や公設秘書の給与は公費で賄われており、国会議員の秘書としての勤務実態がなければ違法となる。これは1990年代の政治改革で導入された制度の根幹に関わるルールであり、過去にも山本ジョージ氏や辻元清美氏の事件を経て、現在では違法性について一定のコンセンサスが確立している。
今回問題となっているのは、秘書が実質的に党職員として勤務していた可能性だ。さらに、複数の議員側に「自分の秘書という実態がなかった」との証言もある。仮に一部に議員秘書としての業務実態があったとしても、制度の趣旨から逸脱している疑いは拭えない。過去の事例と比較しても、政党が組織的に行っていた可能性がある点で、より深刻だと言わざるを得ない。
しかも、この問題への対応が混乱に拍車をかけている。記者会見に立ったのは、総選挙惨敗で幹事長から降格された高井たかし副幹事長と、新たに幹事長に就任した山本ジョージ氏で、カリスマ党首として君臨してきた山本太郎代表や、実質的ナンバー2の大石あきこ共同代表は前面に出てこなかった。説明責任の所在が曖昧なままでは、疑念は拡大するばかりだ。
ただし、このスキャンダルは「引き金」にすぎない。より本質的な問題は、党運営のあり方そのものにある。
れいわ新選組は、強力なカリスマである山本太郎氏を中心に急成長してきた政党だ。選挙で自力勝利できる候補者は、山本代表を除くと、象徴的な存在の木村英子氏くらいであろう。基本的には山本氏の個人力に依存する構造である。この「個人党」的性格は、創成期においては、やむを得ない面があった。
しかし、その裏側で、党内の意思決定は極めて閉鎖的になった。資金の使途や人事の決定過程が、山本太郎氏や大石あきこ氏らごく限られた幹部と側近に集中し、チェック機能が働きにくい構造が固定化された。その歪みが今回の問題で一気に表面化したのである。
さらに、統治機構の弱さも露呈した。れいわ新選組は「党員」ではなく「構成員」という曖昧な仕組みを採用してきた。代表選の資格や意思決定プロセスも明確とは言い難く、執行部の裁量が大きい。この仕組みは外部からの介入を防ぎ、内部統制を強権的にするというリスクを内包していた。
その象徴が共同代表制度だ。本来は権力分散を意図した仕組みのはずが、実際には大石あきこ氏を実質的な後継ポジションに据えるための装置として機能したとの見方が強い。結果として、党の路線は大きく変質した。当初掲げていた「誰一人取り残さない」「生きているだけで価値がある」という福祉重視の理念から、より左派イデオロギー色の強い対立軸へとシフトし、支持層の幅はむしろ狭まっていった。
総選挙での惨敗は、その帰結である。
山本代表は総選挙目前に病気療養を理由に参院議員を辞職して政治活動の無期限停止を宣言。代役を務めた大石氏がテレビの党首討論に独占的に出演したものの、過激な言動で批判を浴びた。結局、昨年の参院選から比例票で220万票を減らし、前回の9議席から1議席へ落ち込む大惨敗。その1議席も大勝した自民党の比例候補不足による「おこぼれ当選」で、本来ならゼロ議席の壊滅的敗北だった。
にもかかわらず、山本代表は留任し、大石共同共同代表の続投を決定。大石氏は党の顔としてテレビ討論に独占的に出演しながら、自らも落選したのに(大阪5区で得票率10%を下回り、供託金を没収される惨敗だった)、敗北責任を棚上げして事実上のトップとして居座ったのである。れいわは事実上、山本体制から大石体制へ意向したといえるだろう。
その状況で秘書給与をめぐるスキャンダルが噴出し、内紛、いわゆる「内ゲバ」へと発展した。これは偶然ではなく、必然の流れと見るべきだろう。
では、れいわ新選組に再生の道はあるのか。
現実的には、いくつかのシナリオが考えられる。第一は現体制のまま立て直しを図る道だが、ガバナンス不全が解消されない限り、支持回復は容易ではない。第二は党内改革だが、構成員制度の曖昧さやカリスマ依存の構造を変えるには、相当の痛みを伴う。第三は分裂、あるいは再編だ。
とりわけ注目すべきは、「理念の継承」と「組織の再構築」を切り分ける発想である。れいわ新選組が掲げた理念――「誰一人取り残さない社会」「生きているだけで価値がある」というメッセージは、多くの有権者、とりわけ医療・介護の現場にいる人々の共感を集めた。その理念自体が否定されたわけではない。
むしろ問われているのは、その理念を実現するための「器」として、現在の組織が機能しているのかどうかだ。もし機能していないのであれば、組織を一度リセットし、新たな枠組み(大石体制に反発する人々による新党結成)で再出発するという選択肢も、現実的な議論の対象となるだろう。
れいわ新選組の混乱は、一政党の問題にとどまらない。政党とは何か、政治家とは何かという根源的な問いを突きつけている。理念と権力、カリスマと組織、理想と現実。その緊張関係をどうマネジメントするのか――。
いま起きている「れいわ騒乱」は、日本政治全体に対する一つの警鐘でもある。ここから何を学び、どのような政治のかたちを描くのか。問われているのは、れいわ新選組だけではない。