永田町で、中選挙区復活論が現実味を帯びて動き始めた。引き金となったのは、自民党と日本維新の会が合意した「衆院定数1割削減」である。本来は定数削減の是非をめぐる議論だったはずが、気づけば小選挙区制度そのものを揺るがす大論争に発展している。
衝撃の一手を放ったのは、国民民主党だ。玉木雄一郎代表は他党に先駆けて、現行の小選挙区289と比例11ブロックを丸ごと廃止し、3~5人区の中選挙区に再編したうえで、有権者が2票を投じる「連記制」を導入する案を提示した。
玉木氏がこのタイミングで中選挙区論を掲げた狙いは明確だ。小選挙区がつくり出した「自民か立憲か」という二者択一の構図を終わらせ、立憲民主党を分解し、多党制に移行しつつ、国民民主党が野党第一党の座を奪い取るという、大胆で戦略的な発想である。
小選挙区制度は確かに自民党と立憲にとって有利に働いてきた。とりわけ支持率の低迷が続く立憲が、実力以上の議席を確保できてきたのは、小選挙区が「二拓」を強制してきたからにほかならない。中選挙区になれば、立憲は選挙区ごとの候補調整が破綻し、路線や勢力ごとに分裂が一気に進むのは確実だ。玉木氏が描くシナリオは、立憲の分裂後、国民民主がその受け皿となり、野党第一党にのし上がるというものだ。
では、中選挙区とはどのような世界だったのか。
1993年まで続いた旧中選挙区制では、ひとつの選挙区に自民現職が3人並び立つことが珍しくなかった。彼らは同じ党所属でありながらライバルであり、背後には派閥がつき、資金と組織を総動員して「仲間内の戦い」を繰り広げた。各派閥は競うように資金を集め、候補者を増やし、勢力拡大に血道をあげた。田中角栄や竹下登といった大派閥の領袖は、総裁人事を左右する「闇の最高権力者」として君臨した。
一方で、野党第一党の社会党は候補者を絞り込み、そもそも過半数を取る気がなかった。結果として、自民は安心して派閥闘争に没頭し、社会党が永遠の野党に甘んじる「自社体制」が盤石化した。中選挙区が続く限り、この茶番は終わらなかった。
これを壊したのが、小沢一郎氏の自民分裂である。1993年、自民党が初めて下野し、非自民連立政権が誕生。小沢氏は二大政党が政権交代を争うイギリス型の議院内閣制を目指し、小選挙区制度を導入した。以降、自民と新進党、のちには民主党が政権をめぐって戦い、2009年には民主党が初めて政権交代を果たした。
しかし、この二大政党構想は長続きしなかった。民主党政権は3年余で崩壊し、野党は立憲、維新、国民、参政、共産、公明、れいわ…と群雄割拠の時代に突入した。制度は二大政党を前提にしているのに、実態はバラバラの多党制。このねじれが、政権交代のリアリズムを奪い、結果として自民党が漫然と政権に居座り続ける「最悪の政治環境」を生み出した。
こうしたなかで、国民民主は中選挙区への回帰こそが、新たな政界再編への道だと読む。
ここに利害が一致するのが、参政党だ。参政党の神谷宗幣代表は維新からの接触に対し、中選挙区を念頭に「民意を反映する制度なら定数削減も受け入れる」と前向きな姿勢を示した。参政党は中選挙区のほうが勢力拡大の余地が大きく、国民民主と共同歩調をとる可能性は高い。
同時に、公明党や共産党といった中小政党も、小選挙区での生き残りが苦しい以上、中選挙区への回帰に乗る可能性がある。
そして自民党内部からも、林芳正氏が総裁選で中選挙区復活を掲げており、一定の支持を持っている。立憲が孤立し、国民・参政が台頭するという構図が、現実味を帯びてきている。
ただし、中選挙区は現職に極めて有利である。結果として、既存勢力が固定化され、新陳代謝が止まる可能性も高い。
私自身の考えとしては、衆院は比例を廃止した完全小選挙区制とし、政権選択の緊張感を維持するべきだ。一方、参院は逆に完全比例代表制とし、多様な民意を吸い上げるべきだ。この二院制の役割分担こそ最もシンプルでフェアだと考えている。
いま、永田町で進む中選挙区復活論は、単なる制度論ではない。政党の存亡、政界再編、そして日本政治の未来を左右する、大きな分岐点となる。
読者の皆さんは、中選挙区の復活に賛成だろうか、反対だろうか。その判断の前提として、この議論の本質がどこにあるのかをしっかり見定める必要がある。