国会議員が能登半島地震の被災地を視察することの是非をめぐって論争が続いている。れいわ新選組の山本太郎代表が過去の被災地支援で親交を深めたNPOと連携して能登半島に入ったことが発端だ。日本維新の会の音喜多駿参院議員が山本代表を「迷惑系国会議員!」と批判し、賛否両論が沸騰した。
さらに、自民、公明、立憲、維新、国民、共産の与野党6党首が「被災地視察の自粛」を申し合わせたことへも賛否両論が相次いでいる。
そもそも国会議員の「視察」は、党職員や秘書を同伴させ、地元自治体の職員らを呼びつけるかたちで行うものであるという印象が広く根付いている。だからこそ、「被災直後の大変な時期に視察に行くなんて」「政治家の自己アピールのために被災地支援を邪魔するな」という議論が出てくるのだろう。
このように形骸化した国会議員の視察のあり方は根本的に改めなければならない。
しかし、山本代表には何度も被災地支援を重ねてきた実績があり、従来の「国会議員の視察」と同列に論じるべきではない。まずは現地に入ってともに体を動かし、被災した人々や支援する人々に寄り添い、励ますことに第一の目的がある。そのうえで国会議員として現地の空気を肌で感じ、問題点を把握し、国会質問や政府への提言につなげるという「本来あるべき視察」といっていい。
実際に現地では山本代表の訪問を歓迎する声が多いようだ。実情を無視した山本批判が政界やマスコミ界から飛び出していることには呆れるほかない。
そのうえに「国会議員は視察すべきではないが、首相や知事は視察していい」という言説まで飛び交っている現状にも私は驚愕した。
行政は不都合な事実を隠す。それを監視するのが野党やジャーナリズムの大きな役割だ。
今回の震災でも、志賀原発をめぐって当初発表とは異なる内容が次々に明らかになり、不信感が高まっている。災害支援の遅れも指摘されているが、実態がなかなか伝わってこない。
行政が隠蔽したり伏せたりする「不都合な事実」を知るには、野党やジャーナリストが現地に入り、自分の目で直視し、自分の耳で被災者から話を聞くほかない。
それなのに野党党首が与党党首の視察自粛で合意するのは責任放棄ではないか。内閣支持率の低迷にあえぐ岸田首相や地震が発生した元旦に都内にいた馳浩・石川県知事が率いる行政当局の発表を鵜呑みにし、国会質問や政府への提言などできるのか。
戦争や大震災・大事件の時は、従来に増して、国民の基本的人権が侵害される恐れが高まる。そういう時こそ野党やジャーナリズムは行政の発表を鵜呑みにすることなく、自ら現地調査に入り、行政が公正に行われるように監視する役割が求められる。
私はX (旧ツイッター)では政治家や著名人ら「強者」以外の批判は避けるようにしているが、さすがに「議会政治」が専門と公表して「25歳からの国会」という入門書を出している平河エリ氏の以下の投稿には異議を唱える必要性を感じて投稿したところ、大きな反響があった。
論争が続く中、さらに呆れたのは、立憲の泉健太代表の発信だ。
泉代表は「被災地支援の自粛」で合意した当事者である。ところが、岸田首相の被災地視察が決まると「総理は行っていいですよって我々は言ってます。総理まで行くなとは言っていません」と記者会見で発言。「災害の対策を指揮する中心人物ですから、空からの視察であれ、降り立てるところに降り立つということはできるわけですから、総理が躊躇する必要はないと考えています。避難所に行って、避難所の現状を確かめてくるのは極めて大事。1日も早く行っていただきたい」とまで言ってのけたのだ。
国会議員と違って首相は視察していいーーこれは、先述した平河エリ氏とまったく同じ認識である。
これでは野党第一党に政権監視の役割は期待できない。自公政権との対決姿勢が強まらないのも、政権交代の機運が高まらないのもうなづける。
立憲の国会議員たちは、泉代表の認識を是とするのか。野党としての存在意義そのものが問われている。