菅義偉首相を題材にしたドキュメンタリー映画「パンケーキを毒見する」が7月30日から全国公開される。菅首相の天敵・望月衣塑子記者を題材にした映画「新聞記者」を手がけた河村光庸プロデューサーの最新作だ。6月23日に特別内覧試写会に招待され、鑑賞した。
河村氏は菅政権発足直後に映画化を企画した。ところが、政治家や記者ら菅首相を知る人々からことごとく取材を拒否されたという。現職の首相について顔を出して証言するのはやはり腰が引けるのか。この国の言論の自由・表現の自由は実に脆いことを実感させられる現実である。
そのなかで映画に登場していたのは、自民党の石破茂元幹事長、立憲民主党の江田憲司衆院議員、前川喜平・元文部科学次官、元経済産業省の古賀茂明氏、ノンフィクションライターの森功氏ら。実は私も菅首相を知る政治記者として登場している。(映画の紹介はこちら→「こんな日本に誰がした?」菅政権の正体に迫るドキュメンタリー映画、予告編解禁)
私が菅首相を初めて取材したのは2003年、小泉純一郎内閣の時代だった。菅氏は当時、自民党宏池会に身を寄せていた。私は朝日新聞政治部の宏池会担当記者だった。
菅氏は自民党の小此木彦三郎衆院議員(前国家公安委員長で8月の横浜市長選へ出馬予定の小此木八郎衆院議員の父)の秘書、横浜市議を経て、小選挙区制が導入された1996年総選挙で初当選する。47歳だった。政治家としては決して早くはない国政デビューである。
当初は最大派閥・小渕派に属していたが、1998年の自民党総裁選で小渕氏のライバルであった梶山静六氏を支持して小渕派を脱会した。新人議員としては大胆な政治行動だったといえよう。梶山氏が敗れた後、宏池会(加藤派)へ入り、2000年に加藤紘一氏が森喜朗内閣不信任案に同調した「加藤の乱」による宏池会分裂では反加藤グループ(宏池会・堀内派)に加わって同派実力者の古賀誠元幹事長に接近した。
私が菅氏と出会った2003年当時、菅氏は当選2回。50歳を超えていたものの、派閥内では「若手」に分類される一議員だった。「親分」の古賀氏は、小泉首相と抵抗勢力のドン・野中広務元幹事長のどちらにつくか揺れていた。当時の宏池会担当記者の最大のミッションは、2003年総裁選で古賀氏が小泉再選を支持するか、野中氏とともに反小泉で戦うかを見極めることだったのだが、そのなかで菅氏は一貫として「小泉支持」を主張していた。
秋田訛りの菅氏は決して流暢に話すタイプの政治家ではない。だが、親分の古賀氏に睨まれながらも自説を曲げず、それでいて古賀氏から一目置かれるその身のこなしに私は注目し、地元・横浜の事務所へ何度か足を運んだ。当時、テレビ新聞各社の宏池会担当記者で菅氏の地元へ取材に行ったのは私を含めて3人だったが、菅氏はとても喜び、その3人と秋田の郷土料理「きりたんぽ鍋」を囲む会を催したくらいだった。有権者と日々接触する政治家秘書の出身らしく、気配りで人を取り込んでいく政治家だと思った。
古賀氏は最後は野中氏に従って反小泉に回り、その後、影響力を低下させていく。一方、菅氏はこれを機に小泉政権との距離を縮め、竹中平蔵総務大臣から副大臣に一本釣りされる。そして小泉内閣を継いだ第1次安倍内閣で総務大臣に抜擢された。テレビ業界に強大な影響力を誇る「総務族のドン」はこうして誕生したのだった。
麻生太郎政権では古賀選挙対策委員長のもとで選対副委員長として選挙を仕切り、党内実力者として注目を集めていく。2009年に自民党が野党に転落した後は雌伏の時と見定めたのか、ダイエットに励んでいた。
私はこの間、菅氏と時折会って意見交換してきたが、イデオロギー的な主張を聞いたことはない。一方で「世論は何を求めているか」「これから権力を握るのは誰か」という政局の動向にはつねに神経を尖らせていた。どこまでも冷徹にリアルな権力闘争を追求する政治家である。2012年の自民党総裁選でいちはやく安倍氏擁立に動き、その功績から安倍政権の官房長官に就任して一挙に政界のど真ん中に登場したのは周知のとおりだ。
だが、いざ総理大臣になってみると、世論の動向を見極めてから動く状況対応型の政治手法は限界を露呈したといえるかもしれない。とりわけコロナ禍の危機状況下で政治のリーダーシップが求められる今、菅氏の打つ手はつねに後手後手だった。官房長官というナンバー2として安倍首相の掲げる強硬方針に従って事案を強引に処理することにはたけていても、トップリーダーとして自ら針路を指し示すことにはあまり向いていないのであろう。
私はドキュメンタリー映画「パンケーキを毒見する」の中で、菅首相の政治家像、とりわけ官僚を人事で掌握する独特の手法について詳しく解説している。映画館で鑑賞いただければ幸いだ。
東京五輪のさなかにこの映画を全国公開するのは、秋の総選挙にむけて、多くの人々に政治への関心を持ってもらい、投票率をすこしでも上げたいという河村氏や内山雄人監督の強い思いからだった。私はそれに共感し、菅首相を知る記者たちが取材を拒否するなかで出演させていただいた次第である。