東京地検特捜部が大型連休の合間の5月2日 裏金問題で市民団体から刑事告発されていた萩生田光一氏や世耕弘成氏を不起訴処分にした。すでに捜査終結を発表し、萩生田氏らを立件するつもりはないとみられていたが、萩生田氏らは検察に立件されていないことを「潔白」の理由として強調していただけに、改めて捜査当局としてお墨付きを与えてしまった格好だ。
検察捜査の終結について国民世論は強く反発していた。本来なら検事トップの検事総長が記者会見を開いて、なぜ不起訴としたのか、国民の疑問に丁寧に答えるべきである。少なくとも刑事責任と政治責任は別であることを丁寧に説明し、「検察が不起訴にしたのだから潔白だ」という萩生田氏らの方便は政治家としては許されないことをはっきりさせる必要があった。
ところが、検察当局は大型連休合間の5月2日に不起訴の結果を司法記者クラブにしれっと発表するだけで、テレビカメラの前で記者会見することもなかった。まさに「出し逃げ」である。
これに対し、マスコミ各社が加盟する司法記者クラブも検事総長に記者会見を求めることなく、検察発表をしれっと報じるばかり。なぜ不起訴になったのかを解説することもなく、不起訴の方針を批判することもなく、検察当局に説明責任を迫ることもなく、まさに検察の広報機関に徹したのである。
検察も検察権力を監視する立場にある司法記者クラブもまったく機能していない。双方はべったり癒着し、「なぜ不起訴なのか」という国民の疑問は募るばかりだ。
この歪んだ事態を解消する役割は、法務大臣にある。法務大臣は検察庁法に基づいて、検察の捜査に関する「指揮権」を発動し、検事総長に対して命令を下すことができるのだ。
法務大臣の指揮権が世論の注目を集めたのは1954年の造船疑獄だった。検察庁は当時自由党幹事長だった佐藤栄作氏(のちの首相)を収賄容疑で逮捕する方針を固めたが、犬飼健法相が指揮権を発動して中止させた。もし佐藤氏が逮捕されていたら、その後の日本政治史は大きく変わったことだろう。
この大事件で「指揮権発動」は、時の政権が検察捜査を防ぐ「禁じ手」の印象が強まり、その後はタブーとなった。
確かに、時の政権が政権幹部を守るために検察捜査を阻むのは、不正な権力の行使である。
だが、本来の「指揮権発動」は逆に、検察当局が「やるべき捜査を怠っている」時にも発動されてしかるべきものだ。今回の裏金事件はまさにそのケースに該当するといえるだろう。
強制捜査を受けた二階派の一員であった小泉龍司法相の辞任論が浮上したのは当然のことだった。自らが所属する二階派が強制捜査を受けるなかで、小泉法相が指揮権を発動して「捜査を止める」恐れがあったからだ。小泉法相は二階派を離脱することで法相の座にとどまった。
しかし本来なら小泉法相は「もっとしっかり捜査しろ」と指揮権を発動するべきではなかったのか。指揮権発動を放棄することが法相の役割ではなく、検察が機能不全に陥っているときに検察を正しく動かすのが、本来の法相の役割のはずだ(だからこそ法相は人一倍清廉でなければならない)。
萩生田氏らの不起訴にあたり、検事総長が記者会見しないのなら、少なくとも検事総長を指揮する立場にある小泉法相が記者会見をし、「なぜ不起訴なのか」「なぜ指揮権を発動しないのか」を丁寧に説明するべきである。
それを要求しないマスコミ各社は、指揮権発動という制度の目的をよく理解していないし、権力監視の務めも放棄しているというほかない。