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新聞記者の原点「地震の日、ボク生まれた」〜阪神大震災から27年

あれから27年の歳月が流れた。あの日生まれたあの子は27歳である。

阪神大震災が兵庫県南部を襲った1995年1月17日、私は朝日新聞の記者1年生だった。初任地は茨城県のつくば支局だったが、その朝は泊まり勤務で水戸支局の宿直室で休んでいた。

泊まり勤務の記者は午前6時までには起きて、朝刊各紙を開けて「抜かれ記事」がないかを探すのが最初の業務である。私はその朝、目覚まし時計の音で飛び起き、ベットの中からテレビをつけた。そして、そこから飛び込んできた画像に呆然とした。

阪神高速道路が倒れていた。幼い時から見慣れた街がぐちゃぐちゃに壊れていた。いったい何が起きたのか?

その街ーー神戸市は私が生まれた街である。小学生時代は兵庫県尼崎市で過ごした。震災当時、母は神戸市に、姉は伊丹市にいた。姉は当時、妊娠していた。

とんでもないことが起きた。母と姉に電話したが、つながらない。

私は駆け出し記者だった。それでも家族を心配しているだけでは記者として失格だと思った。自分にいったい何ができるだろう。大したことはできないかもしれない。それでも何かしなければならないーーいや、何かしたい。自分の故郷がこんなことになっている。できれば、現場へ駆けつけたい。私には土地勘がある。

水戸支局長に率直に思いを伝えると「行っていいぞ」とあっさり許可してくれた。新幹線も飛行機も大混乱だった。私は仙台発伊丹行きの飛行機を抑え、着の身着のまま北へ向かったのだった。

朝日新聞大阪本社にたどり着いたのは17日の深夜だった。ごった返す大阪社会部をいきなり訪ねた1年生記者を相手にしてくれる人はいなかった。しばらく待機していると、どなたかが私を呼んだ。君にしてほしい仕事があるという。

「すぐに神戸支局へハイヤーで向かってほしい。道路網はぐちゃぐちゃだから神戸支局には船で人や物資を運んできたが、できれば陸路に変えたい。君はとにかく陸路でたどり着いてくれ。道中、驚くような光景を目の当たりにするだろうが、そこは我慢して取材せず、とにかく前へ進んでほしい。陸路で何時間かかるか、君に試してほしいんだ」

ハイヤーの後部座席に乗っているだけの仕事かーー。ちょっと残念だったが、いきなり訪れた新人記者に重要な任務など託せないだろう。いや、最前線である神戸支局への物資輸送ルートを開拓することは新聞社としては重要であった。

私は運転手さんとふたりでハイヤーに乗り込み、出発した。道中はすさまじい光景だった。道路は寸断され、建物は崩れ、人が倒れていた。私たちはそれでも前へ進んだ。瓦礫で道が塞がっている時だけ車を降りてかき分けた。いつもなら車で30分ほどの神戸・三ノ宮にたどり着いたのは6時間後のことだった。

神戸支局はビルの7階にあった。エレベーターは動かない。非常電源を除いて全館停電である。階段には窓がなく、真っ暗闇を登っていく。そこは記者たちでごった返していた。神戸支局や大阪社会部に加え、全国各地から取材応援に駆けつけている記者たちだった。新人の私には知らない顔ばかりだった。

床に転がって仮眠している記者もいた。薄暗く肌寒い空間だった。ようやくたどり着いた私は、ほったらかしにされた。そもそも「戦力」として期待されてないらしかった。しばらくは様々な物資や食料を担いで1階から7階まで真っ暗闇の階段を上り下りしていた。

どのくらい時間がたっただろう。デスクらしい人から「君は何をしてもいいよ。記事にするようなことがあったら声をかけて」と声をかけられた。いわば野放しである。新人記者にあれこれ指導している余裕などないだろう。

さて、どうしよう。闇雲に街へ駆け出しても文字通り路頭に迷うだけだろう。

私は気になっていることがあった。姉が妊娠していたことだ。現地入りするまでに無事は確認できていた。しかしこの震災でも出産間近の妊婦さんはたくさんいる。彼女たちはどうしているのだろう。この震災のさなかに出産した妊婦もいるに違いないーーそう思い立ち、神戸支局から徒歩圏内で産婦人科を片っぱしからあたることにしたのだ。

ほどなく見つかった。震災の日に産気づき、産婦人科に駆けつけて出産した妊婦さんを。私がたどり着いた時にはすでに近くの小学校に避難していた。私は1月19日、その小学校へ向かい、両親と生まれたばかりの赤ん坊を発見した。

避難者でごった返す小学校で、彼らは図工室を特別に与えられていた。新人記者の私は「こんな時に恐縮ですが、取材をさせていただけませんか。多くの命が失われた時に、新しい命が誕生したことを伝えたら、多くの人々を励ますことができると思うんです」と言った。父親は首を縦に振らなかった。「うちは燃えたのです。親戚もどうなっているか…こんな時に…取材を受ける気にはなれません」

それはそうだろう。私は押し黙った。

その時である。小学校で煙が立ち上ったのだ。このころ、神戸市内のあちこちで火災が発生していた。地震そのものではなくその後の火災で命を落とす人も少なくなかった。

小学校の体育館や教室にぎゅうぎゅう詰めになっていた人々が一気に駆け出し始めた。両親も赤ん坊も看護師らに抱えられながら避難した。私も一緒に逃げた。大混乱だった。

そのうち人々はバケツリレーで消火を始めた。ほどなく火は消えた。ボヤで収まったのだ。両親と赤ん坊と看護師と私は図工室へ戻った。その時、父親が私にこう告げた。「こんなに多くの人々がたいへんな思いをしているときに、私たちは特別に図工室にいる…取材をお受けして、すこしでも皆さんのお役に立てるのなら…」

その後のことはよく覚えていない。私は夢中で震災から出産までの経緯を聞き、赤ん坊を抱きかかえる母親をカメラに収め、両親の連絡先を聞くのも失念したまま、神戸支局に駆け戻ってデスクに報告し、原稿を書き上げた。

その記事は翌日、震災から3日後の1月20日の朝日新聞夕刊社会面に写真付きで大きく掲載される。以下、全文である。

 地震のあった日、多数の犠牲者の出た神戸市長田区で、赤ちゃんが生まれた――。三、二八〇グラムの男の子。断水で、まだ産湯にもつかっていない。名前も決まっていない。それでも、元気だ。
  
 十七日、母の栄しのぶさん(二三)は、出産の予定日を二日後に控えていた。未明の激しい揺れで、飛び起きた。タンスが倒れる中、夫(四〇)に抱えられて外に出た。自宅は、その後の火災で全焼した。
 午前八時ごろ、とりあえず避難した近くの眼科医院で産気づき、通院していた産婦人科病院へ。夫が駆けつけた。
 病院の建物には亀裂が走り、床には薬や注射針が散乱していた。しかし、「出産だけはできるように」という医師の配慮で、分べん室だけは地震後に片づけられていた。
 医師は、近くの真陽小学校に運びこまれるけが人の治療に駆けつけて不在だった。分べんには、助産婦が立ち会った。午後十時四十分、大きな産声が病院内に響き渡った。父がおむつで血をぬぐった。
 「とんでもない日に……」。元気よく泣くわが子を手に、父はちょっぴり複雑な表情を見せた。被害を受けた親類や近所の人たちのことを思い浮かべたからだった。
 赤ちゃんは今、真陽小学校の「産婦人科」にいる。医師が学校と交渉して図工室に仮設した。
  
 【写真説明】
 地震が発生した17日夜に出産、翌18日には赤ちゃんとともに小学校へ避難した栄しのぶさん=19日夜、神戸市長田区で

震災発生から3日間、神戸の街は暗く沈んでいた。沈鬱一色だった。4日目に入り、人々がすこし明るい話を求め始めた時期だったのだろうか。社会というものは、どんなに悲惨な現実を前にしても、暗さだけに包まれるのは3日が限界なのかもしれなかった。新人記者が執筆した「地震の日、ボク生まれた」は、震災後初めて報じられた「明るいニュース」だった。反響は実に大きかった。

新聞各紙は翌日以降の朝刊で、震災の日に生まれた赤ん坊を次々に発見して紹介していった。みんな異なる赤ん坊だった。それは当然だろう。震災の日であっても新しい命はあちこちで誕生していたのだ。それぞれにさまざまな物語があったに違いない。

新人記者の私はひとつ重大なミスを犯した。混乱の最中で両親の確実な連絡先を聞き忘れ、その後、連絡がつかなくなってしまったのだ。ところが、である。大阪社会部の記者がその後、この両親と赤ん坊を見つけ出し、一年後の社会面の記事で紹介してくれた。ことし、どんな27歳を迎えるのだろう。

私は朝日新聞社に27年勤めて辞めた。色んなことがあった新聞記者人生だった。東日本大震災と福島原発事故は政治部デスクとして経験し、政府発表を垂れ流すばかりで本当は東日本壊滅の危機にあった事実をリアルタイムで伝えることができなかった政治報道に限界を感じた。その後、特別報道部デスクとして福島原発事故を巡る極秘文書「吉田調書」を独自入手した調査報道の責任を問われて会社から処分され、独立を決意した。

私の記者人生は「ふたつの大震災」と切っても切り離せない。世の中は予期せぬことが起こる。そのスタートが阪神大震災だった。「地震の日、ボク生まれた」は私の原点である。なんともつたない文章だが、その後の長い政治記者生活で書いた数多の政治記事よりも気に入っている。

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