前期の期末試験が終わった。成績はまだ出てない。とりあえず無事に前期を終了できただけで十分。よかったぁ〜〜!
大した紆余曲折はなかったが、中弛みというか、「こんな年齢でアイスランド語を学んだところでしっかりと話せるようにはなれない。アイスランドに一生住もうとも思ってないし、時間の無駄ではないか?」と自問することはしばしば。そんな疑問を抱えつつ、自分を騙し騙しここまできた。
なにせ諸手を挙げてやり始めた物事ではない。重い腰をあげてのアイスランド語だ。アイスランド大学の、ディプロマ・コースと呼ばれる一年間の課程ではぶっちぎりの最年長、唯一の60代学生。
40年ぶりの大学は若い頃と何が違うのか?今回はそんな話をしたい。
その前に、少しだけおさらいを。外国人がアイスランド語を学ぼうとすると、民間の語学教室か大学かの選択しかない。その辺の事情は以下のコラムに書いたので、留学に興味ある人は読んで損はないと思う。
若い頃との違いの第一は、長老学生は気楽である。
単位を落とせない、大学を卒業しなければならない等の脅迫観念がない。卒業後の就職先も無関係。良くも悪くもどう転んでもいい。
アイスランド語は理解できてもできないままでも、問題はない。実用性はあっても必要性はごく低い。幸か不幸かこの国では、英語が話せれば普通に生きていける。
(ん?それは別の意味で大問題ではないか?なにせ移民を含めても総人口が37万人の国だ。政府が本腰で言語学習環境を整えないと、この言語は消滅しかねない。それなのに政府はモタモタ、ノロノロ。移民関係(語学も含めて)の物事は、足がのろい)
第二に、若い頃とは物事の観点が異なる。学生に徹することができず、講師とはいかなる職業なのかを観察してしまう。
ひとクラスの学生数と講師の配分、授業内容の進行や付随する資料、時間配分、類似科目との相互関係、講義の進め方、講師としての資質等、裏方で何を行えばこのような運営ができるのかが脳裏をよぎる。つまりは学生が考える必要のない裏舞台の構成が気になる。
これは私自身が日本の大学でアイスランド文化の授業を担当したり、セミナー等を開催していたため、下準備にかかる事実関係の調査、気苦労等を体験していたこととも大いに関係あるだろう。
第三に、気楽に加えて楽しもうという余裕がある。だってさぁ、珍事件に近いよね?!
60代の大きなお姉さんが、アイスランドという 極北の僻地の大学に通うとは、日本国民全体から見ても私ひとりだ。この大学全体でも、アジア人の熟年学生は私ひとりのような気がする。これは珍事であろう。
せっかっくの珍事なので、学生生活を楽しみたい。諸外国からやってきたクラスメートと話すのも楽しいし、英語で行っている興味ある教科をいくつか聴講している。宿題や試験をこなすほど時間はかけたくないので、興味あるところのつまみ食いには聴講が最高。なので「アイスランド文化」と「日本の映画」を聴講させてもらった。
「アイスランド文化」では特に文学に興味がある。というか、私に欠落している分野だ。この授業のおかげで実際に原本を見せてもらい、専門家に疑問点をぶつける機会も得て、好奇心を満たすことができた。現代文学も二作ほど読んだし。非常にいい機会だった。歴史、映画、美術等も取り上げ、博物館等も訪問するこの授業は、アイスランド文化全般を知るきっかけとして優秀。
「日本の映画」は、低下するばかりの自分の日本語能力を少しでも維持したいという下心と、映画を見るだけでいいという息抜きが目的だった。日本映画の斬新さを初めて知り、国際的な評価の高さは日本人として誇らしかった。黒澤監督、小津監督の作品は衝撃的に心を打たれ、今まで知らなかったことを恥もした。こういった映画から日本の文化の真髄を読み取り、もっと感じたいと心底思うようになったのは意外だった。
見聞は広めてみるものだとしみじみ。
他には、考察、思考訓練とはつまりは考え方の遊び場なのだということも。分野にもよるとはいえ。あと、アカデミズムの定義を改めて考えるきっかけにもなっているetc。
最後に、若い頃とは違い(?)真面目に勉強している。これが一番自分でも驚きだ。若い頃の勉強は単位を落としたくないからであり、勉強の中身にどれほど興味を抱いたかには若干の疑問がある。けれど、今回はどーせやるなら中身を知りたいという思いが案外強い。アイスランド語は知ればしるほど複雑で法則性がない物事も多く、「なぜ?」という疑問も多い。好奇心をくすぐられるとも言い換えることができる。
この「真面目に勉強している」には、冒頭に書いた「時間の無駄ではないか?」という憤りが伴う。大学で授業を受けている時間は、それなりに充実しているのから許せる。AIやアプリ等ではない人間の教師から授業を受けるのは、先人からの文化継承のようにも感じる。
家での自習時間は長いし、理解できずに悶々と考えることも多い。成果物といえば「私は月曜日と水曜日に学校へ行きます(Ég fer í skólann á mánudögum og miðvikudögum)」というような単純な文がやっと。
「こんなに時間と労力を使って何になる!」との思いが拭えない。予習、練習問題、宿題等をこなすのに、1日平均4-5時間は費やしていたのではと思う。多い時には10時間以上を費やしたこともある。あまりにも時間を食うため「もう辞める!」「好きな時に辞めればいい!」を自分の中で繰り返すのだ。
これで逃げ場がないと苦しいが、逃げるも逃げないも、最初から好んでこの場に居るので、苦しいけど苦しくない(って日本語が支離滅裂)。そして気を取り直し、翌日大学へまた足を運ぶのだ。脳内にジャクソン・ブラウンの「And when the morning light comes streaming in. I’ll get up and do it again」(The Pretender)という歌声を響かせながら。
喧嘩しながらも上手くやってるツンデレ夫婦のようなもので(←例えが悪過ぎ!)、今後も文句を言ってはガスを抜きつつ、こなしていくのかと思う。
小倉悠加(おぐらゆうか):東京生まれ。上智大学外国語学部卒。メディアコーディネーター、コラムニスト、翻訳家、ツアー企画ガイド等をしている。独自企画のアイスランドツアーを10年以上催行。当地の音楽シーン、自然環境、性差別が少ないことに魅了され、子育て後に拠点を移す。好きなのは旅行、食べ歩き、編み物。