政治を斬る!

こちらアイスランド(220)50年の同窓会、浦島太郎はこんな気持ちだったのか!〜小倉悠加

50年ぶりに高校の同期生と言葉を交わす機会を得た。最後に教室で会ったあの日から、人生で一番濃い年月をそれぞれに過ごした後の、半世紀ぶりの出会いだった。

それはどことなく慣れない違和感と、自分の体験そのものである安堵感が同居した不思議な時間だった。

2026年2月8日は関東に大雪が降り、首都圏の交通網はズタズタだ。衆議院選挙の日でもあり、入試や国家試験なども行われていた。

よりにもよってそんな日が、高校の同期生と50年ぶりの再会日と重なった。

どんな顔をしていけばいいのだろう?ま、顔はひとつしか持っていないけど。

緊張したり心配する必要もないか。50年前のあの生徒生活を共にした仲間なのだから。

そして私は会場に足を運んだ。

くったくのない楽しい時間だった。同時に、どうにも消化しがたい不思議な時空でもあった。

過去との遭遇なのに未知との遭遇のようであり、勝手知ったる仲であるはずなのに、初対面のような居心地の悪さも感じた。

この感覚をどう表現すればいいのだろう。
竜宮城の玉手箱から煙がぶわりと湧き出し、自分が突然老人になってしまう。ん?!まんまじゃん!!

そもそもなぜ50年ぶりなのか。同窓会など以前にもあったはずだと思うことだろう。

普通は。あるよね。

この50年間、高校の同期生に会うことがなかったのは理由がある。

私は新設高校の第一期生なのだが、その仲間とはいっしょに卒業できなかった。高校3年生の二学期から1年間休学し、アメリカの高校を卒業して、日本の高校に復学した。当時の規定では、アメリカの高校卒業資格は日本では通用しなかった。高校卒業の資格を取得するためには、高校3年の残りの過程をこなすことが必要だった。

一期生入学、二期生卒業なのだ。

ちなみに現在は法令が変更され、アメリカの高校卒業資格はそのまま日本でも通じる。

同期生は私が留学中に卒業し、私は下の学年の生徒といっしょに高校を卒業した。そんな理由で長い時間を共にした同期生とは高校3年の1学期の終業式からこの日までの間、一度も会うことがなかった。

一期生の卒業名簿に私の名前はない。あるはずがない。私は二期生なのだから。高校卒業間もなく引っ越したこともあり、長い間、誰とも音信不通状態だったのだ。

何がどう巡り巡ったのか、きっかけは覚えていないけれど、3年生の時に同じクラスだった男子とFacebookでのつながっていた。彼が私を卒業50周年の同窓会に誘ってくれたのだ。

厳密には私は同窓会メンバーではない。けれど、同窓会は厳格な法令を伴う物事ではないし、私に関しては十分に許容範囲であろうと思う。

お誘いはものすごく嬉しかった。半ば夢のようだった。長い間「あの時の同級生はどうしているだろう?また会えたらいいのに」と思ってきた。墓まで持っていく悲願かとまで思っていた。

ところが、50周年の同窓会開催は私がアイスランドにいる時期で参加できない。ものすごく残念だーーーということを幹事に伝えると、他にも50周年同窓会に参加できない人もいるので、それじゃプチ同窓会をやりましょうか、と申し出てくれたのだ。感涙。

プチ同窓会なのに20名もよくぞ集まってくれたと思う。それもあのような大雪の大荒れの日に。

同級生に会うのは50年ぶりだ。50年だよ、50年!

高校生の頃に50年後の自分を想像できただろうか?自分の将来が見えている人はほとんどいない年齢だろう。私は音楽関係の仕事につく!という意思は固かったが、実際にどうなるかは歩んでみないことにはわからない。

会場に入りまず目の中に飛び込んだのは、3年生の時の担任教諭、秋山先生の笑顔だった。休学する私を暖かく支援し、送り出してくれたあの先生だ。

秋山先生、変わらない!あの時のまんま!!

失礼を承知で書けば、高校生だった私の目に先生は老けて見えていた。あの頃はまだ30代前半の女性だったのに!そんな印象もあり、50年後に会っても少し老けたかな?程度で姿はまったく当時のまま!

それに比べて周囲を囲む同級生の変貌ぶり!誰もわかんない(爆)!!

年月とは無慈悲だ。みんな老けた。老けすぎて見た目が変わりすぎて分からない。ごめんよ〜。きっと私も変わったよね。なにせあの頃はまだ15-16歳だったのだから。

人生の紆余曲折や悲喜交交を経て、みんなそれなりにドンと肝が据わったいい顔をしている。ただ、誰が誰だかわかんない・・・(汗)。

2-3名は「あぁ〜〜、面影ある!!!」と思い出せる人がいた程度で、あとは名乗り出てもらい、初めて顔と名前がおぼろげに一致したりしなかったり。

周囲に飛び交う話の内容を聞いていると、知ってるようで知らないような、でも思い出そうと思えばなんとなくそんなことがあったような記憶がないこともないーーー。

薄雲をつかむような朧げな記憶があるともないとも言えないような、不思議な感覚が続いた。知ってそうな気配はあるものの、確信がもてない物事ばかりだ。

50年のブランクは成層圏を突き抜けそうなほど広大だ。

そうか、これが浦島太郎が持ち帰った竜宮城の玉手箱の境地なのだ。そんなことを実体験しようとは!

第一、千葉駅で下車したのも50年ぶりだ。中央出口から以前はすぐに外に出ることができた。

それが今は、中央出口前にはエスカレーターがあり(お前は東京駅か!)、そこを下ってバスターミナル沿いに歩いていくと、巨大ビルの間が通路のようになっていた(お前は有楽町か!)。

街の変貌は都市の定めだ。人も刻々と変化をして、誰もが歳をとっていく。

ンなことはわかってる。わかってるけれど、それを具体的に見せつけられると、どう捉えていいやら途方に暮れる。

激変のインパクトに意識がついていかない。消化しきれない。

貴重な再会の時間だ、途方に暮れてもいられない。周囲にあいさつをしたり、遠くの席からわざわざ声をかけにきてくれたりと、一瞬一瞬が驚きだった。懐かしさよりも、思い出せないもどかしさの方が大きかった。そして心からありがたかった。うれしかった。

50年間手にすることがなかった卒業アルバムにも初めて触れた。私のために持参してくれたという。ありがとう。先生も当時の写真をご持参くださった。その時に見た懐かしい一枚がこれ。

秋山先生と高校時代の私がそこにいる。懐かしくて思わず写真の写真を撮らせてもらった。

次に目にとまったのが、私を留学に送り出す壮行会の写真だった。記憶から完全に抜け落ちてる・・・。

写真を二度見、三度見して、やっと朧げにそんなこともあったっけ・・・と。じっと考え込んだあとに、半分程度しか写っていない私の隣に座った女子は、引っ越しをして来学期はいなくなる人だったことをふと思い出した。案外思い出せるじゃん!

少なくとも自分に直接関係のある事柄は、なんとなく思い出せるような感じだった。けれど、他の物事は完璧に手上げ。飛び出す話題に思い出せる断片が少な過ぎて、思い出せない度合いが衝撃でもあった。

なぜこれほど思い出せないのか。その理由を考えてみた。

 *記憶力が悪いから(要するにバカだから)。

 *日本の高校時代の物事のインパクトはアメリカでの高校生活よりも低いから(当然か)。

 *50年というブランクが長すぎるから(以前に反復する機会がなかった)

思い浮かぶ順に記していっただけで他意はないし、上記すべての複合的な要因ではないかと思う。たぶん最後が一番の原因で、記憶力はさほど関係ないような気がする。

この年齢になると忘れっぽくなる。作業を中断してキッチンへ行き、お茶を入れてデスクに戻る。と、そうだ、プリンを取りに行ったはずなのに忘れてたーーーという単なるマヌケな話とは異質なものだろう。

50年前のあの時に降った粉雪。それが長年の積雪の末に氷河に姿を変えていたのだ。最初の粉雪を思い出そうとしても、雪はもう雪でさえなく、コチコチに固まり、凍りついて、溶けたとしても元の当初の姿とは似ても似つかない。そんな感じなのかもしれない。

会場での時間は驚くほど速く過ぎていった。雪に足止めされて私が遅れて入ったせいもある。それを差し引いても一瞬の出来事のようだった。戸惑っているうちに終了時間が訪れた。

せっかくだからと、2時間ばかり二次会(男性5名+女性2名)にも参加した。

見慣れない男性に囲まれた。いや、見慣れていたはずなのだが・・・。知らない逸話、仰天の新事実、私の記憶が正しいことを確認した物事、それをひとつひとつ頭の中で映像化しながら楽しく話をした。どこか懐かしくもあり、別世界の物事のようでもあった。

私がこの感覚をどう説明していいやら言葉をさがしあぐねていると、「カルチャーショックですよね」と、言語化してくれた人がいた。

そうだ、カルチャーショックでもある。

異次元、別世界に入り込んでしまったような、それでも知らない世界ではないという不思議な感覚。

そんな中、唯一ありありとあの頃と今をつないでくれたのが、50年前のまんまの秋山先生だった。

先生の聡明な話し方はあの頃と変わらず、違和感がなかった。同期生に関しても、総じて女性の方が変わらない印象を持った。

もうひとつ、50年前にタイムスリップしたのは音楽の先生の顔写真を見た瞬間だった。

高校3年になり、選択科目を取る時間があった。ほとんどの生徒は、その時間を英語や数学の補修に当てたのではないだろうか(違ったらごめん)。私は音楽を選択した。音楽を選択した生徒はほとんどいなかった。確か最初は2-3人いたのが、人数の少なさにおののき、翌週には私だけになった。

教師と私だけだったのをいいことに、ある時私はパティ・スミスのアルバム『Easter』を持っていった。洋楽がベイ・シティ・ローラーズの全盛時代に、我ながら尖った選択をしたものだ。その先生に「Because the night」と「Rock n Roll Nigger」を聴いてもらった。

否定されると思いきや、その音楽に対しては否定も肯定もせず、自分はこういう音楽をあまり聴かないから、聞かせてくれてありがとうと言われて驚いた覚えがある。なぜかこのことは詳細を覚えている。たぶんそれはこのアルバムを取り出す度にこの出来事を思い出したからだろう。

二人で個人的な話もした。その先生はオペラ歌手だった。歌手として生きたかったけれど、それで生計を立てることはできないため音楽指導の道を選んだと、正直に気持ちを吐露してくれた。淡々と話すその言葉の裏に、オペラ歌手としての生活を諦めた一抹の悔しさ、寂しさを感じずにいられなかった。

音楽の先生の写真を見て、そんなことを生々しく思い出した。

残念ながら先生は10年前に鬼籍に入られていた。帰宅してネット検索すると、先生への追悼演奏会が催されていたことも知った。地元合唱団を指揮する姿も動画に残っていた。

あぁやっぱり私は音楽軸の人間なんだ。先生にには同類の波長を感じたし、音楽指導の道を選んだという悲壮感を伴う決意を知り、当時の私は自分は好きな道を歩みたい、歩んでやろうと思ったのかもしれない。

集まってくれた同級生の、それぞれの50年を詳しく聞くまでの時間はなかった。50年間の物事を数時間で埋めるなど、所詮無理なのだ。それでいい。

集まることができたことに、50年ぶりに再会できたことに、ただただ感謝するばかりだ。身体の不調、家庭の都合、経済的な事情、さまざまな理由で参加できなかった人も少なからずいたことだろう。

こういった物事は、諸般の余裕や健康あってこそだ。みんな、本当によく生き残ったよね。みんなの笑顔に触れることができて本当によかった。よかった。

一期生との再開は50年間の悲願でもあった。これで心の中の消化不良をやっと払拭することができた。やっと高校を卒業できた気がしている。

末筆になるけれど、足元が悪い中ご足労いただいた秋山先生、私を同窓会と繋げてくれた生駒くん、きめ細やかな配慮で幹事をしてくれた坂下くん、そしてプチ同窓会に参加してくれた一期生の仲間に心からお礼を言いたい。本当にありがとう。また絶対に会おうね!!!

(個人名の掲載、写真掲載はすべて許可をいただいています。)

小倉悠加(おぐらゆうか)
東京生まれ。上智大学外国語学部卒。アイスランド在住。メディアコーディネーター、コラムニスト、翻訳家、ツアー企画ガイド等をしている。高校生の時から音楽業界に身を置き、音楽サイト制作を縁に2003年からアイスランドに関わる。独自企画のアイスランドツアーを10年以上催行。当地の音楽シーン、自然環境、社会の自由な空気に魅了され、子育て後に拠点を移す。休日は夫との秘境ドライブが楽しみ。愛車はジムニー。趣味は音楽(ピアノ)、食べ歩き、編み物。


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