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コロナ後遺症のポンコツカメラマンが行く被災地能登(1)「誰かこの状況を説明してくれないか?」〜飯塚尚子

今回の能登行きはコロナ後遺症で職業カメラマンから引退して、初めての本格的な撮影だった。もちろんボランティアも兼ねたものだ。

コロナ後遺症の私にできるボランティア等たかが知れている。

重たいものは長時間持てないし運べない。休みなく続く長時間の力仕事も無理だ。
一人一人にお金を配って歩けるほどの小遣いも働いていないのだからあるわけも無い。

取材についてつぶやく私にSNSでは反対の声が上がっていた。
「そんな身体で何をしに行く。迷惑でしかない」「何かあったら貴重な資源が外の人物に持っていかれる」「お願いだから来ないでくれ」等だ。

ボランティアにはタイミングとそれこそ沢山の形ややりかたがある。
自分に出来る、自分にしかできないボランティアとは何だろう?

準備期間中ずっとそんな事を考えていた。

後遺症の私でも誰かの手を借りることなく出来ること、何時でも誰でも補充できる、普通に存在する日常であればいくらでも補充できるもの…というのも重要な視点だ。

悩みながら準備を少しずつ進めていった。
厳冬用に車の整備をし、バッテリーやオイルなども全てディーラーにみてもらう事から始めた。現地のディーラーにも連絡をとっておいた。
2023年のGWに能登を訪れた時も寒い夜は0度近くまで下がった記憶がある。まさかボランティアに行って自分が助けられる羽目になるのだけは避けなければならない。
車のバッテリーから電源が取れるようにコンセント付きのAC/DCコンバーターを備えた。これで各種通信設備(スマホ・アマチュア無線機・ラップトップPC)への充電は問題ない。

3.11の時には通信が遮断され被災現場からの情報が入らなかった。
津波はどうなっているのか? 原発の状況はどうなっているのか? うちの親戚たちは、友人たちは無事なのか?
多くの人々が落ち着かないまま、繰り返されるTVの情報に釘付けになっていたのは記憶に新しい。
大きな災害時に命を握るのはまずは通信設備と環境なのだ。

現地での細かな様子はSNSと地元紙以外はなかなか入ってこなかった。
不安要素は数え上げればきりが無いので、夜は基本金沢まで戻ることとした。

準備をしながら考え続ける。
さて、被災した方々に喜ばれるものは何だろう?

コメや水、簡易トイレは既に自衛隊や各地の行政が運んでいるだろうことは想像できていた。
SNSやニュースを見る限り自衛隊も入っていて、炊き出しも行われているはずだ。

それにしても初期の一次避難で何が一番つらいか想像してみた。体育館で数百人が一緒に寝泊まりする事のストレスだろう。
温かく皆もいるので安心だと思うかもしれないが、そこにあるのものの多くはストレスではないだろうか?
想像して欲しいと思う。

若干の顔見知りもいるだろうが老若男女の日常がごちゃ混ぜの丸見えだ。
夜間には必ず誰かが行くトイレの音。

人は一斉にトイレなど行かないから常に人の出入りの気配がすることになる。出入りの度に冷気が床を這うように広がりながら侵入してくる。
薄暗がりのそこここからする年寄りのしわぶき
赤ん坊の泣き声、苦しそうな声、大きな歯ぎしりやオナラの音、そしてどんなに疲れていて眠気がこようとも襲ってくる地震の揺れ。
時にはスマホや自治体のサイレンが鳴ることもあるだろう。そこはまさしく戦時下そのもので、心から休める場所では決してないのだ。

広域災害の避難所は全国各地何処の自治体でも一次避難所に指定されているのはその多くが公立の小中学校の体育館等だ。

実は冬季の体育館は「くそ」がつくほど寒いのである。教育現場専門のカメラマンだったので卒業式に体育館のステージ脇の光も暖房もない薄暗いスペースで機材を組み立てながら調整をしているだけでその寒さが身に染みてくる。
手がかじかんで思うように動かなくなる。
さらに冷たい三脚やカメラのボディーは推して知るべし。歯の根が合わなくなるほど寒いこともあった。

これから訪れるのは真冬の日本海側だ。
数百人が着の身着のまま駆け込んだ暖房をしていても体育館は底冷えがする。
何枚靴下を履いても足元から冷気が這いあがってくる。

それもいつ止むとも知れぬ身震いする大地の上で。

2月22日

午前、私は千葉から能登までの天気図と高速道路の地図をにらめっこしていた。
現地まで600㎞、道半ばで大雪に見舞われないようにするためだ。

出発は翌2月23日の予定だったが、今日22日夕刻から整備し終えたばかりの車で自宅を後にした。
何故なら数日後琵琶湖付近の大雪を警戒したからだった。

2月23日
二日目の朝、よく覚えていないのだが新東名のどこかのPAで騒音の中、熟睡の出来ぬままやおら起きてトイレを済ます。
鏡にはタンブルウィドーの様な髪をした妖怪が顔色も悪く映っていて、思わず微笑んだがそれが一層怖かった。
コーヒーの販売機の前に立ち、現状には不釣り合いな陽気なBGMにお尻を振ってみたが、我ながら寒いものがあった。

熱々のコーヒーを口にし、天気図や気温を確認してハンドルを握る。焦る気持ちに蓋をしながら、食料品も調達する予定で名古屋まで一気に駆け抜けたのであった。

名古屋で一旦街に降りてボランティア用品を購入する事を思いついた。
昨晩駐車場で仮眠をしたものの、エンジンを止めた車内はやはり寒かった。着の身着のままで避難されてきた現地の方々を思う。

「そうだ…年寄りでも女・子供でも持てるし、養生テープとハサミさえあれば、寒さからしのげるものがある」
それは宅配便などの緩衝材として詰め込まれている「プチプチ」だ。
当家では北側の全ての窓にアルミサッシ毎プチプチを張り付け、更に上から陽光が取れるよう白いプラスティック段ボールを張り付ければ、格安な「断熱ガラス」が出来あがる。断熱効果のデータをとって調べたわけではないが、まずサッシ周囲の結露がゼロになった。部屋数分のエアコンを24時間点けっぱなしにしても実際の電気料金は昨年とほとんど変わらなかった。

名古屋で高速道路を下りてホームセンター探しが始まった。

ところが、車載ナビで「ホームセンター」と検索しても出てこないではないか!?
何度やっても出てこない。スマホで検索すると答えが分かった。
つまりこの辺りでは「ホーム」が主体ではなく「農耕」が主体だったのだ。
私が住む米どころ千葉でもおなじみニワトリマークの「コメリ」があった。
「コメリ」にはホームセンターの「ホ」の字も無い。
その事で気づいた。「そうか、もうこの地はヒトが主体ではなく生きる糧が主体なのだな」と。

案の定、緩衝材は安く軽く大量に買う事が出来た。1ロールは大人の背丈ほどもあり、片手でつまめるほど軽い。お値段は小銭で十分だった。

そして、夜の帳の降りる中、一気に金沢へと向かった。本日の宿は職人村ともよばれている金沢職人大学校の駐車場だ。
駐車場の明かりの下、時折大粒のボタン雪がぼたぼたとフロントグラスに落ちてくる。地震の揺れによるこの辺りの損傷はそれほどみられなかった。

乾電池式のランタンは非常に明るい。
そして今夜はプチプチロールが左右の窓ガラスとの間にロールごと緩衝材兼断熱材になった。
これは暖かかった。
曇ったフロントグラスからは時折パチパチとあられの音がする。この辺りの雪はこのように降ることが多いのだとガソリンスタンドの方に聞いた。

雪のカーテンが舞い降りたかと思うほど視界一面真っ白になってはあっという間に雪は消え失せ、また静けさの闇に閉ざされる。
その夜はさっさと眠りについた。
冬用のコールマンの寝袋二枚、真冬用の対マイナス10度用の寝袋も二枚。

避難所の方々はどうしておられるのだろう・・・

お年寄りや愛犬や愛猫は飼い主と一緒でいられるのだろうか….きっとサイレンと揺れが来るたびにおびえているのだろうと思うといたたまれなくなる。

そうして、結局のところこの夜も何度も目が覚めては明日以降の事を考えて静かに目を閉じる事を繰り返して、まんじりともしないまま時間は過ぎて行った。

2月24日
取材にはロケハンというものがつきものだ。現地の状況を事前に確認する意味が大きい。
アナログ時代は本取材の前に二・三日前のりをしてざっくり状況を把握したものだった。
まだ明けやらぬ金沢市街の大通りを一路珠洲市へ向かった。

昨日、ガソリンスタンドの気さくな若者から現地の道路状況などを入手していた。彼が親切に私のスマホを珠洲市の行政に行き着けるように設定してくれたのだ。
「もし急な工事や道路が通行止めになった場合でもこれなら絶対に大丈夫ですよ。どんな小さな道でも通れさえすれば案内してくれますから」

そこには能登の人特有の柔らかな笑顔があった。

そして、金沢から「のと里山海道」を北上し、半年ぶりに見る日本海を左にしながら羽咋で東へハンドルを切る。半島を西から東へと横断するルートだ。

6時を過ぎても直接太陽を見る事は無かった。黒い山影の連なりの上にオレンジに染まった雲が横たわり、その上を次々に真っ黒な雲が行軍していくかのように足早に通り過ぎて行った。

ここから先は一言で言えば、「阿鼻叫喚」。

大怪獣が山々の上で暴れまわり、大きな爪で山肌をひっかいたような傷跡の上を何度も通ることになったのだった。


能登の山々はそれほど高くない。せいぜい標高数百メートルの丘の様な山の様なものが連なっているだけだ。
地震さえ起きなければ景色はリズミカルで穏やかな山野の風景が広がっていただけで済んでいただろう。

ところが、上下で合計4車線あったであろう整備された近代的な道が、あっけなく谷底にずれ落ちているのだ。
そして地方からの行政や復興のために重機を載せた車両や自衛隊に加えて個々人のボランティアと思われる車の列は、やがて山ののり面に急遽つくられた「道路」をしずしずと一列になって移動する。
まるでチベットの断崖絶壁を壁に張り付くように走り抜けるワゴン車のようだ。10㎝でもズレたら谷底だ。
自衛隊車両のあの重量が疎ましく思えたのはこの時だけだった。急ごしらえの道が落ちたら自衛隊車両共々後続の我々も谷底である。

咳払いのひとつさえしようものなら崩れかねない緊張の中に多くのドライバーと同乗者は身を置いていただろう。
リアルタイムで「命綱」の意味を知った。
気付けば長い間呼吸を止めたままだったらしい。急に苦しくなって大きく肩で息をついた。
握ったハンドルはぬるぬるとしていて、何度もハンドルを握り直さなければならない程だった。

一番に肝を冷やしたのは二車線ある対向車線のアスファルトが数十メートルにわたって「空中回廊」になっていたのを目にした時だった。
一瞬目を疑った。何が起きているのかしばらく頭が混乱していた。
これはコロナ後遺症のせいではない。

厚さ数十センチ足らずであろうアスファルトが、湯がいた利尻昆布のようにたわみながら力なく垂れ下がっていた。逆光の山並みを背景にした美しい画の中を横切る真っ黒な線のようにしか見えなかった。

全身の体毛が一気に立った瞬間、恐怖が現実となって襲ってきた。
今自分の乗る車が走っている道もやや大きな地震が来ればひとたまりもないような急ごしらえの道路だ。
左の路肩は崖ののり面がサイドミラーに触れるぐらい傍にある。
岩肌も剣呑としていて一抱えもありそうな石ころもあちらこちらに落ちている。

息をつめてゆっくりゆっくり、咳のひとつもはばかられる、まるで葬儀の車列のようだった。

その時、右手のたわんだアスファルト上の何かに違和感があった。
宙ぶらりんの「空中回廊」の中ほどに黒い大きなものがある。
なんとひしゃげた黒い軽乗用車一台が「空中回廊」の中ほどに停車したまま捨て置かれていたのだ。
つばを飲み込みながらそろそろとアクセルから足を離し、目の端でとらえたそれは45度ほどもある傾斜の中で両側のドアは開かれたままになっていた。

まさか、車中から避難した人がいたのか??
なぜあんな紙の様なアスファルトの上に車一台だけが残されているのだろう??
助かったのはあの車だけなのか??
人がいたとして、下は何もないただの空間だ。
紙のようなアスファルトの上を這いつくばりながら移動したというのか??

誰かこの状況を説明してくれないか?
もしこの事実の「何故」を埋める事をご存じの方がいたら是非、サメタイ迄ご連絡を頂きたいと思う。

原稿を書きながら当時の事を思い出すと知らぬ間にのどがカラカラになっている。
この続きは、珠洲市に到着したのちの事を写真と共にお伝えしていきたいと思う。


飯塚尚子(いいづか・たかこ)
東京都大田区大森の江戸前産。子供の頃から父親の一眼レフを借り、中学の卒業アルバムのクラス写真は自ら手を挙げて撮影している。広告スタジオ勤務を経て現在フリーランスの教育現場専門カメラマン。フィールドは関東圏の保育園から大学まで。教育現場を通じて、社会の階層化・貧困化、発達障害やLGBTを取り巻く日常、また、議員よりも忙しいと思われる現場教員たちに集中していく社会の歪みを見続けている。教育現場は社会の鏡であり、必然的に行政や政治にもフォーカス。夫は高機能広汎性発達障害であり障害者手帳を持っている。教育現場から要請があれば、発達障がい児への対応などについて大人になった発達障がい者と直接質疑応答を交わす懇談会や講演も開催。基本、ドキュメンタリーが得意であるが、時折舞い込む入社式や冠婚葬祭ブツ撮り等も。人様にはごった煮カメラマンや幕の内弁当カメラマン、子供たちには人間界を卒業した妖怪学校1年のカメラマンと称している。

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