米国のオリンピック専門メディア記者としてIOCの裏側を長年取材してきた明治大学の小田光康先生のインタビュー。最終回は日本人独特の「オリンピック信仰」について考えます。
日本人ほどオリンピックを神聖化している人々はいないと小田先生は言います。しかし東京五輪をコロナ禍のさなかに強行開催することを通じて、多くの日本人が「いったい誰のためのオリンピックなのか」という疑問を感じ始めました。
巨大ビジネスと化したオリンピック。政権が支持率を稼ぐ国策となったオリンピック。いまや「オワコン」になりつつあるのかもしれません。
それではまずはYouTubeをご覧ください。そのうえで一連のインタビューについて私自身の総括を記します。
1971年生まれの私の記憶にある最初のオリンピックは、1980年モスクワ五輪です。当時は東西冷戦時代でした。ソ連のアフガニスタン侵攻に反発して米国など西側諸国がボイコットし、日本も不参加に加わりました。当時の私は小学生。冷戦下の国際情勢などまったく理解していませんでしたが、代表選手たちの残念そうな表情は記憶の片隅に残っています。まさにスポーツが政治に翻弄されたのでした。
4年後の1984年ロサンゼルス五輪は、ソ連など東側諸国が報復としてボイコットする一方、テレビ放映権やスポンサー協賛金の仕組みが劇的に変わりビジネス色が前面に出る商業五輪の先駆けとなりました。当時の私は野球に明け暮れる中学生。東西冷戦や商業五輪への関心はほとんどありません。陸上のカール・ルイスらの活躍に釘付けで、日本選手のメダル獲得を心より応援する子どもの1人でした。
あれから、1988年ソウル、1992年バルセロナ、1996年アトランタ、2000年シドニー、2004年アテネ、2008年北京、2012年ロンドンと、オリンピックを楽しんで観戦してきました。1994年に新聞記者になった後はさすがに五輪に背後にある政治・経済問題に関心が向くようにはなりましたが、いざ五輪がはじまると、世界のトップアスリートたちの姿に引き込まれました。日本選手団の活躍にも一喜一憂してきました。
でも、2013年に東京五輪招致のため、安倍晋三首相が福島原発事故で発生した汚染水について、世界に向かって「アンダーコンロトール」と大見得を切ったあたりから、自分の心のなかで不信が強まりました。前回の2016年リオデジャネイロではオリンピックへの関心はすっかり冷めてしまいました。心に残るシーンはまったくありません。閉会式で安倍首相がマリオに扮して登場した時には「政治利用される五輪」に嫌気がさすようになりました。
その後、東京五輪招致をめぐる金銭疑惑や競技場建設などに注ぎ込まれる巨額の税金問題、電通が暗躍する巨大利権の構造などが相次いで発覚し、「いったい誰のためのオリンピックなのか」という疑問は膨らみました。
そして、日本政府が国民の多くが反対する「コロナ禍での強行開催」に突き進む現実を目の当たりにし、疑問は確信に変わりました。もはやオリンピックは選手や国民のためのものではない。支持率を稼ぎたい政治家やお金を稼ぎたいスポンサー企業が、アスリートや開催都市の人々を食い物にする巨大イベントに過ぎないのだ、と。
さらに、大手新聞社がこぞってオリンピックのスポンサー企業となり、開催機運を盛り上げる報道を続ける現実を目の当たりにし、新聞記者のひとりとして、怒りを超えて情けなくなりました。
私はスポーツ観戦は好きです。けれども、オリンピックにはすっかりしらけました。かつてのように、オリンピックに心躍らせることは二度とないでしょう。今回の東京五輪をめぐる騒動で、私と同じような心境になった人々は、少なくないと思います。
私は東京五輪開催に反対です。一方で、今回の開催には「歴史的意味」があるとも思っています。それは「日本人のオリンピック信仰」を終焉させるということです。オリンピックの背後にある政治的・経済的思惑が可視化され、「誰のためのオリンピックなのか」という疑問を多くの国民が共有したことは、この国の民主主義の成熟にとって大きな一歩になったと思うのです。
ほとんどの国民がマスコミ報道を通じて釘付けになるからこそ、オリンピックは国家イベントとして、政治的にも経済的にも利用されてきました。国民的関心が一点に集中するのは、大量生産・大量消費で経済成長をひたすら追求した右肩上がり時代の産物でしょう。デジタル時代が到来し、価値観が多様化して、みんなが一様に日本選手のメダル獲得を期待してテレビ中継にかじりつくのは前時代的な現象となりました。
オリンピックを利用する政治家やスポンサー企業に冷たい眼差しが向けられるようになれば、政治家にとっても大企業にとってもそれほど魅力的なものではなくなります。オリンピックを政治利用する政治家が落選し、スポンサー企業が高額の協賛金に見合うメリットを感じなくなれば、肥大化したオリンピックは変わらざるを得ません。
今回の東京オリンピックへの失望感が、日本の民主社会を一歩成熟させると私は確信しています。
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