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パターナリズムとリベラリズムをジェンダー論的に考えてみる〜ゆっくり考える

SAMEJIMA TIMESの筆者同盟に「ゆっくり考える」さん(ハンドルネーム)が加わります。ユーチューブ動画へご意見をいただいたことをきっかけに、SAMEJIMA TIMESから執筆を依頼しました。アカデミックな立場から寄稿していただこうと考えています。初回は政界の対立軸をジェンダー論の立場から読み解く鋭い論考です。

このたびSAMEJIMA TIMESから寄稿依頼を受けましたので、鮫島さんがyoutubeに公開した「れいわ躍進を示す政界地図分析~世界で勢いづく左派ポピュリズム 左右対決から上下対決へ」(2022年6月10日公開)を手がかりに、サメタイの一読者として、パターナリズムとリベラリズムの問題をジェンダー論的に考えてみたいと思います。

れいわが海外でいうところの「左派ポピュリズム」のポジションにあることを解説するこの動画の中で、鮫島さんは、縦軸に「エリート-大衆」、横軸に「リベラリズム-パターナリズム」というベクトルを取り、各政党の価値観と傾向を説明しておられました。おそらくこのマトリクスは、「リベラリズム」の反対は「保守」ではなく「パターナリズム」であるという中島岳志先生の観点も踏まえた上でのものなのだろうと思います。そしてこの動画では、「リベラリズム」とは個人や多様性を大事にする態度であるのに対し、「パターナリズム」は国家・国益、社会、均質性・同質性を重視する、という説明が提供されていました。

たしかにこの構図によって、各政党の価値観と傾向がわかりやすくなります。しかしここでは、「パターナリズム」の問題を、ジェンダー論的な観点を導入しつつ、もっと掘り下げてみたいと思います。

「パターナリズム」はpaternalismとつづります。『ジーニアス英和大辞典』によると、「pater-」はラテン語で「父」、「-al」は「…の」という意味です。つまり「パターナリズム」の中心的要素とは、pater(父)という言葉で表現される、指導的地位にある年長男性や長老です。このpaterから派生した「patri-」(父の)という言葉に「-arch」(指導者)という要素が加わると、「パトリアーク」patriarch(家父長、族長)という意味になります。さらにこれが「パトリアーキー」patriarchyとつづられると「家父長制」です。いずれにしてもそのコア・イメージは、指導的地位にある年長男性や長老を中心にした秩序にあるようです。上野千鶴子『家父長制と資本制』(岩波文庫)を参照しますと、「パトリアーキー」とは年長男性が富と権力を握って若年男性や女性を管理・支配するシステムのことであり、それは非常に長い歴史をもつとわかります。

富と権力を特定の人々が長く独占する状況が続けば、当然ながらさまざまな問題が発生します。長老層による一方通行の指導(支配)、長老層から発せられる絶対服従や同化の要求、その結果としての全体主義的状況の発生、劣位に置かれた者にふりかかる格差問題、差別問題などです。「パターナリズム」とは、長老層に富と権力が集中することによって生じるこうしたさまざまな傾向や問題を指す言葉だといえます。となると、鮫島さんが「パターナリズム」の要素として挙げた「国家・国益の重視」も、実際には「長老層が解釈した国家・国益の重視」ということになるのでしょう。長老層は国益がなんであるかを解釈し、国富にダイレクトにアクセスする権利を独占します。女性、若者、マイノリティはそうしたプロセスにかかわることができません。

このように、「パターナリズム」の本質を年長男性や長老への富と権力の集中という点から理解しますと、日本のいわゆる左派リベラル男性が主張する「個人主義」「リベラリズム」も、実は「小型のパターナリズム」「小型の縄張り主義」(俺の縄張りに入って来るな)でしかないことが多いのではないか、と疑わしくなることがあります。左派リベラル男性の中には、「絶望」を強調し「愚民」を突き放し、幅広い連帯の芽をむしろ摘んでしまうような言論を好む人々が一定数みられます。絶望的状況を正しく認識することは重要ですが、それが新しい道を切り開くことへとつながらず、周囲の人間を威嚇(マウンティング)し、自身の縄張りに閉じこもることを正当化する手段にしかならないのであれば、非常に困ったことになります。「お互いに干渉しないこと」「自分が一国城主となって自由にふるまえること」――こうしたことのみが「個人主義」「リベラリズム」の内実であるとすれば、その本質は「自分の縄張りの中で長老になること」ではないでしょうか。お気に入りの子分と女性にだけは自分の縄張りへの立ち入りを許し、みずからが貯蓄・管理している資源を若干分け与える代わりに、忠誠心や各種ケアなどの「見返り」を求める、という構造が維持されているのであれば、それは「小型のパターナリズム」ではないでしょうか。この「小型のパターナリズム」に立脚する「個人主義」「リベラリズム」は、自分にとって利益にならない「赤の他人」には冷たく無関心です。このタイプの「個人主義」「リベラリズム」が極まると、藤崎剛人先生が言うところの「責任概念なき個人主義思想」「エゴイズム」(https://bungeishunju.com/n/n3b28b53eebb3)になるのでしょう。おそらくネット上には似たような指摘がすでに存在していることと思いますが、「小型のパターナリズム」は実は「新自由主義」と相性がいいのです。

もし「リベラリズム」を「パターナリズム」に対立するものとして位置付けるのであれば、それは「パトリアーク」(男性指導者)が各種「資源」(女性、子ども、子分を含みます)を独占・支配する秩序を批判し、そうではない秩序を志向するものでなくてはならなくなります。今の日本においては、そこで出てくる答えが「個人主義」なのですが、この「個人主義」は、上述のように他人に冷たい「小型のパターナリズム」に過ぎないのではないかという疑惑が濃厚です。そうしたこともあってか、鮫島さんは動画の中で、「リベラリズム」の軸にある態度は「一人一人を大事にする」ことだと言い、「個人主義」という言葉を使いませんでした。

パターナリズム的ではない、一人一人を大事にする「個人主義」「リベラリズム」とは本来どのようなものなのでしょうか。世界人権宣言第一条には、「すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない」とあります。この後段をよく見ると、「同胞の精神」をもって連帯することが要請されており、「赤の他人」のことも見捨てない隣人愛や人類愛のようなものが前提とされていると理解できます。日本においては、左派が共同性というものを強く忌避するためか、「同胞の精神」は右派のほうで発揮されがちですが、本来であれば、見捨てられた人々に「同胞の精神をもって」手を差し伸べ連帯する、隣人愛的「リベラリズム」(適切な表現かどうかわかりませんが、ひとまずこのように書いておきます)という次元があるのではないか、どうも今の日本にはこの次元があまりにも弱いのではないか、という気がしてきます。鮫島さんが解説しておられた「左派ポピュリズム」も、このあたりとかかわってくる政治現象なのではないかと思います(なお、国家によって隣人愛が強制されるような状況になれば、それはパターナリズムです)。

現在の「左派」勢力を、「パトリアーク」(男性指導者)の上意下達的コミュニケーションを重視するか、隣人愛的な双方向的コミュニケーションを重視するか、という点からみてみますと、今のところ、隣人愛的な双方向コミュニケーションが際立っているのは、たしかにれいわであるようにみえます。れいわ以外の党が隣人愛的実践をまったくやっていないなどというつもりはありませんし、れいわの隣人愛的実践についてはパフォーマンス的だという批判もあるでしょう。隣人愛的な双方向コミュニケーションには不安定なところもあるので、ときに危うい面もあるでしょう。しかし他方で、小選挙区制の導入は、与野党を問わず党員が「パトリアーク」としての党幹部の顔色をうかがう傾向、すなわち視野狭窄的で硬直した「家父長制」的傾向を、組織の次元で強めてしまったようにも思われます。個々の成員が「パトリアーク」の命令に大人しく従ううちに、自動的に「パターナリズム」が内面化されてしまう組織、このようなものが日本の民主主義的停滞や閉塞感の一因となっているのであれば、ここはもう少し、「パトリアーク」的秩序を揺さぶり、見る者の心を動かす隣人愛的実践を「リベラル」「左派」勢力に期待したいところです。


ゆっくり考える(ハンドルネーム)

東京郊外育ち。SAMEJIMA TIMESの一読者。研究・教育業界の片隅で日本を眺めています。気になった問題をゆっくり考えます。縁あってSAMEJIMA TIMESに寄稿する機会を頂くことになりました。

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