高齢者施設で介護士をしていたとき、担当入居者さんの部屋を清掃訪問した後、向かいの部屋のその人は引き戸を少し開けて私を待っていた。
少し開けた引き戸の中からすうっと手が伸びてくる。その細い手に握られているのは、500mlサイズのペットボトルだ。
「いつも悪いわね」「いえいえ、大丈夫ですよ」
いつもの会話、いつもの笑顔、そして頼まれるのはペットボトルの蓋を開けること。「ありがとう」「いえいえ、いつでも仰ってください」。少し開けた引き戸を閉めるのは、私。その人は車椅子をくるりと回し、ペットボトル片手に部屋の奥へ。
老いるとは、ペットボトルの蓋を開けられなくなること。初めて頼まれたときはそう思った。

指先に力が入らない
1️⃣ フライパンが重く感じる
ペットボトルの蓋開けを頼まれる入居者さんの隣の部屋の人も私が清掃担当だった。その人は、料理が好きだったが、施設に入所する少し前頃には、フライパンが重く感じるようになったという。
「フライパンを棚からコンロに置くだけで精一杯なの」。自分でもなぜこんなふうになってしまうのか、情けなかったとその人は言った。「年を取るって哀しいわよ」。それは今までできた事ができなくなってしまうという嘆きだった。
施設勤務をしているとさまざまな人から、手に力が入らなくなるという話を聞いた。ペットボトルの蓋開け、フライパンのほかにも、缶のプルタブが開けられない、瓶の蓋が開けられない、マグカップが重い、ネジを締められない、靴下がスムーズに履けない、箸が思うように使えないなどがあった。
こうした日常生活のあらゆる事ができなくなるとき、介護の始まりと思ってもいい。ただ、すぐに要支援、要介護認定というわけではない。数年後には始まるのかなという目安だろう。
2️⃣ 文字が上手く書けなくなった
勤務先の福祉施設では、来館者が受付で名前を書く。そのときに、文字が書けない人がいる。決して珍しいことではなく、ペンを握る力が弱くなっているのだ。それは加齢に因るものもあれば、病気に因るものもある。認知症が原因のこともある。
90歳になる私の母は、自分の名前をしっかりと書ける。いつまで書けるかわからないが、書けるうちは代筆をせずに母に任せたい。
だが、母の文字を見ると以前とは違い弱々しい。ペンを握る力、筆圧の弱さが見て取れる。人は老いるが、文字も老いるのだ。そしてやがては書けなくなる。
これを考えると自筆署名を厳格に求める行政機関の書類には首を傾げることも多い。書けないのに、書かなければ認めないという一点張りも少なくない。そのルールを通すために本人の手にペンを持たせ、家族がその手を持って書かせてくださいと言う場合もあり、形式重視のやり方に苦笑するしかない時もある。
母の場合だが、ペットボトルの蓋が開けられないより、文字を書くのが辛くなってきた事の方がショックのようだった。親戚の事務所の経理事務をやってきたからだろう。事務仕事もやり続けられるならそれに越したことはないが、いつの日か終わりは来る。
3️⃣ ユニバーサルデザインを使って日常を保つ
老いては子に従えというけれど、できない事が増えるので維持を張り、無理にやろうとせず、子に従いなさいということでもある。できない事が増えるのは、自然の成り行きだ。嘆くのも仕方なし。嘆きながらもできる事を続けていくのはとても大事な老い方だと思っている。
介護士をやっていた時には、指先を細かく動かしたり、力を入れたりすることが難しくなった入所者の家族が、マジックテープ付のカーデガンを施設へ届けてくれたことがある。
見た目はボタン付きのカーデガンだが、その裏にマジックテープで止めるように作られてあるので、指先の力が弱くなってきた人も容易に着られる。自分でマジックテープを付けることもできるが、このようなユニバーサルデザインの服もあるのでお勧めしたい。
私も母にマジックテープ付のカーデガンを着てもらっている。初めは、ボタンくらいできるわよと言っていた母だが、好んで着ているところを見ると楽なのだろう。
ユニバーサル・デザインにはさまざまな物がある。蓋を開けるオープナーもあるので試してみると良い。でも無理は禁物だ。オープナー利用の際も手に力を入れることには変わりないので、容易にできないのであれば止めた方が良い。怪我をしてからでは遅い。
4️⃣ にぎる力、つかむ力は命綱
介護の仕事をやっていたとき、トイレの介助では「つかまっていてくださいね」「手を離さないでくださいね」と声掛けしながら行った。被介護者に手すりに掴まっていてもらうことで、リハビリパンツやパット交換が安全に行えるのだ。
もちろん、転倒しないように被介護者の体を支えながら行うけれど、本人の手すりに掴まる力が頼りとなる。弱弱しい手でベージュ色のポールを掴んでくれるとき、心の中では「ありがとう、頼むから手を離さないで」といつも祈った。

天井と床の突っ張り棒(ポール)
高齢者施設の排泄介助では、手すりを利用すれば自分で立てる、便座に座れる、会話ができるということならば、サポートして通常通りの排泄をしてもらうことが多かった。
トイレ(排泄)というのは大きな目安となる。高齢者同士の介護の会話の中で「ひとりでトイレに行けなくなったら終わり」という話をよく耳にする。伝い歩き、杖を使ってもトイレに行けることがとても重要なのだ。それが介護を受けるか否かの堺になると考える人が多い。
トイレに行けるということは、排泄行為ができ、自分でパット交換ができて、衣服の脱着もできるということだ。それができるには、ある程度の握力を維持していなければならない。手や指先の力が弱くなり、ズボンを下ろしても、下ろしきれない、さらに上げられないとなると、介助が必要になってくる。
私の母を見ていても、ペットボトルの蓋が開けられなくなった頃から、これまでの生活がひとつ、またひとつとできなくなっている。
被介護者の握力が弱くなってきたら、無理をしてまで蓋を開ける、握る、掴むという行為はさせない方が良い。できないときが止め時だ。怪我をしてしまっては元も子もない。年老いて指先が動かなくなり、力が入らなくなった人の代わりに、介護者は自分の指先を使って助けよう。被介護者がそれをできなくなった事を受け入れよう。
最近、少しずつできる事が少なくなっていく母を見ながら、私はそんなふうに考えるようにしている。
写真:橘 世理
介護事始めシリーズ

橘 世理(たちばなせり)
神奈川県生まれ。東京農業大学短期大学部醸造科卒。職業ライター。日本動物児童文学賞優秀賞受賞。児童書、児童向け学習書の執筆。女性誌、在日外国人向けの生活雑誌の取材記事、記事広告の執筆。福祉の分野では介護士として高齢者施設に勤務。高齢者向け公共施設にて施設管理、生活相談を行なう。父親の看護・介護は38年間に及んだ。