ことしも3.11がやってきた。東日本大震災そして福島第一原発事故の発生から11年になる。振り返ればこの11年間に日本社会の空気はずいぶん変わった。
2011年・原発事故→2012年・安倍政権発足→2013年・特定秘密保護法成立→2014年・集団的自衛権の行使容認→2017年・共謀罪成立→2020年・コロナ禍での緊急事態宣言→2022年・ウクライナ戦争への武器支援…
思いつくままに出来事を並べても、「危機管理」や「安全保障」の名の下に国家権力を肥大化させて国民の自由を縛る流れが強まっていると感じる。この国の為政者はこの間、労働者の賃金は一向にあがらないのに、国民の暮らしはそっちのけで、国家の権限強化ばかりに明け暮れてきたというのが私の実感だ。もっとほかにやることあるでしょ、政治家は。
「国家」が「個人」より優先される時代の風潮を、私はとても危惧している。
さらに見逃せないのは、そのような為政者に対する国民の怒りが燃え広がるどころか、逆に批判勢力のレッテルを貼られることに怯えて政権批判を避ける同調圧力が強まるばかりという現実である。
国力が衰退し国民が分かち合うパイが縮小するなかで「負け組」へ転落することへの恐怖心が国家権力にすり寄る風潮を醸成しているのか。
あるいは中国が台頭して経済力で追い抜かれて傷ついた体面を取り繕うべく政治家が煽る愛国心に共鳴する国民感情が広がっているのか。
原発事故被害の補償を求める福島の人々や在日米軍基地に抗議する沖縄の人々に対して向けられるようになった「いつまで反発しているのか」という冷ややかな視線に代表されるように、この国の社会は多数派に抗うマイノリティーに対して極めて冷淡になった。そして強き者を助け弱き者をくじく新自由主義を掲げる新興勢力が国政選挙で躍進している。
野党第一党が「野党は批判ばかり」との批判に怯えて「提案型野党」を名乗り、労働組合を束ねるナショナルセンターが政府与党に露骨に接近し、挙げ句の果てに、国民総動員令を発して18歳〜60歳の男性の出国を禁止し武器を持って戦うことを迫る他国の政権と「共にある」と宣言する国会決議にれいわ新選組をのぞく全政党が賛成した。
この国の国会はいよいよ大政翼賛会に近づいてきたのかもしれない。いつから「戦争」がそれほど好きになったのだろう。何よりも「戦争」を避けるのが先の大戦が残した最大の教訓ではなかったのか。
私はいかなる理由があろうとも自国民から「戦わない自由」を奪って戦場に送り出す政権を支持する気になれない。そのような政権に武器を送ることに賛成する気になれない。「個人」より「国家」を優先する社会はまっぴらごめんだ。個人に命の犠牲を強いることを避けるために、政府があり、外交がある。個人から「戦わない自由」を奪って戦場に送り出す状況を招いた時点で、その政府はもう政府として失格なのだ。戦争の勃発は外交の失敗なのである。
私たちの国がアジアを侵略した戦争に敗れてことしで77年。生の戦争を知る国民はほんのわずかになった。政界の重鎮も財界の重鎮も言論界の重鎮も戦争を知らない時代になったのだ。
私が政治記者として取材した宮沢喜一元首相はかつて「戦争を避けるにはナショナリズムを抑えることです。ナショナリズムを抑えるためなら私はいくらでも国債を発行します」と語り、「近頃は戦争を知らない政治家が増えた」と嘆いていた。いまや戦争を知る政治家はほとんど存在しなくなった。
明治維新から77年で日本は戦争に敗れて廃墟と化した。その敗戦から77年目に勃発した「欧米vsロシア」の戦争。ウクライナを主戦場にした「ロシア征伐」の戦争は世界に拡大する恐れを孕んでいる。そこへ日本がさしたる覚悟もなくずるずる引き込まれていく気配を感じずにはいられない。
政界ばかりではない。国内世論も不穏だ。
コロナ禍で政府が求める行動自粛に応じない人々を私的に取り締まり攻撃をしかける「自粛警察」が広がったと思えば、ロシア軍のウクライナ侵攻では欧米政権が喧伝する「ゼレンスキー大統領=正義、ロシア=悪」という善悪二元論から少しでも逸脱する意見を表明すると「ロシアを味方しているのか」という短絡的なバッシングを怒涛の如く浴びる。
私が気になるのは、このようなネット世論の多くが、自分があたかも大統領や司令官になったような「権力者目線」で語られていることだ。そこには、手元に明日を生きるお金がなくて行動自粛に応じてはいられない人々や、家族と無理やり引き裂かれて武器を持って戦うことを強いられる人々への想像力が感じられない。みんなが権力者になった気分で「次はどうするべきか」と言い合っている。
権力者目線で語ることがネット言論の主流になったのはいつからだろう。
その言論の場に参加している人々のほとんどは、家柄や地位、富などの特権に守られた「上級国民」ではなく、私を含め、いざ戦争になったら、権力者に武器を持って戦えと真っ先に命じられる立場にあるのに、なぜ大統領(首相)や司令官の目線で主張するのか。なぜ戦地に送り込まれる人々の立場で意見を表明しないのか。私にはさっぱり理解できない。よもや自らは「上級国民」として特別扱いされると錯覚しているわけではなかろう。ほぼすべての権力者は国家や国民より自分のことを優先するのは人類の長い歴史が証明しているのではないか。
ウクライナ情勢でもっとも大切な視点は「ロシア軍を撃沈すること」ではなく「ウクライナで暮らす人々の命を守ること」だ。そのためにいま、何よりも優先すべきは「停戦」を実現させる外交努力である。欧米とロシアはすこしでも有利な状況で停戦に持ち込む駆け引きを続けているが、双方と一線を画し、双方に即時停戦を迫ることが「ウクライナで暮らす人々」にもっとも寄り添った姿勢であろう。戦争当事者の一方に武器を支援して戦争を後方支援し泥沼化させるなどもってのほかだ。
なぜ権力者目線の言説が飛び交うのか。いちばんの責任はマスコミにある。
テレビや新聞に登場する「専門家」が語っているのは「NATOはどうすべきか?」「ゼレンスキー政権の次の手は?」「欧米はどうすればロシアの侵攻を防げるのか?」という権力者目線の話ばかりである。「専門家」を自称する人々の多くは、誰かの利益を代弁している。米国で学んだ専門家は米国の利益を代弁する傾向があるし、官僚OBの専門家は出身母体を代弁する傾向がある。それにくらべて「ウクライナの人々が生き延びるにはどうすればいいか」「日本の市民がウクライナ政府に寄付したお金はどのように使われるのか」といった庶民目線の報道があまりに少ない。
そのマスコミ報道に引きずられて、日本中が権力者目線でコロナ禍やウクライナ情勢を論争しているーー私にはそう映る。これほど権力者にとって都合のよいことはない。
私たちはもっと自分のために主張していい。もっとわがままを言っていい。戦いたくない、家族と離れたくない、行動を縛られたくない、誰かに監視されたくない、もっと自由に生きたい…個人の基本的人権に何よりも価値を置く日本国憲法のもとでは、そのような思いを自由に主張していい。権力者を代弁する必要はない。まずは自分の人生、自分の暮らしを守るため、自分のために主張することから民主主義は始まるのである。
私は数多くの権力者を取材してきたが、決して権力者目線になることなく、権力者の失政でいざ戦争になれば真っ先に戦地に送られる庶民の目線で政治を読み解いていきたいと思っている。
新聞記者やめます。あと82日!【あれから10年。私の記者人生を変えた福島原発事故】