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新聞記者やめます。あと82日!【あれから10年。私の記者人生を変えた福島原発事故】

あれから10年。当時、私は政治部デスクとして国会記者会館に拠点を置き、民主党政権の取材を陣頭指揮していた。将来の社長候補といわれた政治部長の渡辺勉さんに39歳で政治部デスクに大抜擢されていた。

30代で政治部デスクに就任した記者は、私の新聞記者歴27年で聞いたことがない。他の5人の政治部デスクたちは2〜6期上の先輩だった。その中で私は政局取材を仕切る「政党長」という役職を任された。テレビでお馴染みの星浩さんや政治コラムで著名な曽我豪さんら私の新聞社を代表する政治記者たちが歴任したポストである。

私は明らかに「出る杭」だった。先輩である官邸キャップや与党キャップの原稿にデスクとして手を入れ、彼らに取材方針を指示していたのだった。

東京・永田町にある国会記者会館が激震に見舞われたのは2011年3月11日午後2時46分。私はテレビで国会審議を見ながら朝刊の紙面計画を考えていた。国会では菅直人首相が違法献金問題で激しく追及されていた。私の新聞社の社会部がまさに3月11日朝刊の一面トップで「首相に違法献金の疑い 104万円 在日韓国人から」という記事を「特報」していたのだ。

私は2001年に民主党を担当して以来、菅直人氏とは長い付き合いである。彼が首相になり、私が政治部デスクになってからも頻繁に電話して取材していた。私の新聞社に私以上に彼を取材できる記者はいなかったし、他社の政治部にもほとんどいなかったであろう。「首相に最も食い込む記者」の一人であったのは間違いない。

私の新聞社が3月11日朝刊で違法献金問題を「特報」する前夜、私は、菅直人首相からコメントを取れていなかった社会部から要請を受け、彼に電話し、明日朝刊にこのような記事が出ると通告した。

常日頃から政治家とは対等な関係を維持しようと努めていた。菅直人首相は電話口で怒っていたが、それで報道方針が曲がることはないことも理解していた。

そうして違法献金問題が「特報」され、菅直人首相の進退問題が浮上したまさにその日、東日本大震災は発生したのである。国会審議は中断し、東北沿岸部が大津波にのみこまれる映像が流れるに至り、首相の違法献金問題は吹き飛んだ。福島第一原発で爆発が起きた後は、もはや政局どころではなく、永田町も新聞社も原発事故一色になった。

当時官房長官だった枝野幸男氏は若くから菅直人氏に重用されてきたため、私も旧知の関係だった。原発事故担当の首相補佐官だった細野豪志氏は京大法学部の憲法ゼミの一つ後輩だった。私が1999年に政治記者となり、彼が2000年に初当選して以降、その時々の政治情勢について意見交換し、長い時間を共有してきた仲だった。

当時の私ほど恵まれた政治部デスクはいなかっただろう。時の首相にはいつでも電話ができた。官房長官や首相補佐官とも親しかった。どの新聞記者よりも政権中枢の状況を把握している自信があった。さらに新聞社内では大物政治部長の強力な後ろ盾を得ていた。政権取材においても新聞編集においても、私は盤石に思えた。「最強の政治部デスク」になったと思い込んでいた。

日本史上いや世界史上に残る福島原発事故は、そんな最中に起きた。政治ジャーナリストとしてこれ以上力を発揮すべき場面はない。

ところが、私から菅直人首相への電話はつながらなくなった。それまでは必ず折り返しの電話があったが、肝心の局面でホットラインは途絶えたのである。無理もない。官邸は大混乱だったのだ。

電話が通じたとしても、彼が原発事故の状況を正確に把握していたかは怪しい。枝野氏や細野氏とも似たような状況であった。いずれにせよ、歴史に残る国家危機の渦中において、これまで経験したことのない政権取材の重大局面において、私は何の情報も得ることができなかったのだ。

私は政治部デスクとして、枝野氏が官房長官会見で話した「ただちに影響はない」という公式見解を垂れ流すしかなかったのである。

新聞社には真実を求める読者から抗議が殺到した。それらは実に的を得た抗議であった。新聞社はこういう事態においてこそ、政府発表をうのみにせず、政府が隠している事実に迫り、それを読者に伝える責務がある。私が政治部デスクとしてその責務を果たしていないことは明白だった。

もちろん、菅直人首相ら権力者を忖度したわけではない。取材ができず、ウラが取れなかったのだ。記者として力が及ばなかったのだ。

実はこのとき、福島第一原発は私たちの想像をはるかに超えて危険な状況にあった。福島第一原発の吉田所長がのちに証言したように「東日本壊滅」の危険さえあったのだ。いくつかの偶然が重なり最悪の事態は回避できたのだが、当時そうした危機的現実を読者に伝えることができなかったのは、新聞記者として慚愧に堪えない。

しかも私は単なるひとりの新聞記者、政治記者ではなかった。大新聞社の政治部デスクとして政権取材の指揮采配を任され、10年間にわたる政治取材を通じて政権中枢にも食い込んでおり、政治取材の世界でこれ以上ないほどに恵まれた立場にあったのである。その分、私に課せられた責務は大きかったはずだ。

それなのに、原発事故という重大局面で、私は読者に対して、何ら役に立つ情報を伝えることができなかった。東日本壊滅の事態が起きていたら、どう責任を取ればよかったのだろうか。これまで何のために政治報道を続けてきたのだろうか。

私は自分に何が欠けていたのかを自問自答した。

取材力が不足していたのか。いや、政治家や官僚に食い込む努力は人一倍してきた。現に私以上に民主党政権中枢にアクセスできる記者はあまりいなかった。そこは本質的な問題ではない。

報道姿勢が間違っていたのか。私は政治家に忖度しないと決めていた。誰よりも厳しい質問を記者会見で浴びせてきたつもりだ。媚びへつらって取れる情報はたがが知れている。そこはぶれていない。

では、なぜ何も報じることができなかったのか。仮にあのとき首相に電話が通じたとして、彼は何かを打ち明けただろうか。もしかしたら「東日本が壊滅するかもしれない」と打ち明けたかもしれない。でも、世の中が大パニックになることを覚悟して、私はそれを記事にすることができただろうか。私が記事を出稿したところで、編集局長は最終的にその記事の掲載を許しただろうか。歴史に「もし」はなく、このあたりは確かめようがない。

ひとつだけ間違いなく言えることがある。原発事故を前に「最強の政治部デスク」は、ただ無力であったのだ。

私は、私自身を含めてこの国の政治記者たちが長年積み重ねてきた政治取材というもの自体に限界があると思うようになった。永田町でどんなに政治家に食い込んでも、霞が関でどんなに官僚に食い込んでも、そこから得られる情報はすべて間接情報である。ウラをとったと思っても実はウラを取らされているだけ、つまり権力に利用されている側面は決して消えない。そこに現場はなかった。原発事故が政治取材というものに内在する本質的な欠陥を可視化したように思えた。

原発事故後の民主党政権は内部抗争に明け暮れた。私は政治部デスクとしてその政局にずっと追われた。来る日も来る日も政局報道だった。空疎だった。こんな内部抗争を追いかけるために新聞記者になったのか。もっと大事なことは別のところにあるのではないか。

原発事故から1年余りが過ぎた2012年夏、私は政治部を去り、調査報道に専念する特別報道部デスクに移った。そこには福島に通い、現場を歩き、原発作業員と触れ合い、地元住民に溶け込み、原発事故の隠された事実、埋もれた事実を掘り起こそうとする記者たちがいた。ここにこそ真実があると思った。この世界で勝負したいと思った。

こうして私は原発事故の調査報道を仕切ることになる。ここから私の記者人生は加速度を増して劇的に流転していく。「栄光」を見た。そして「挫折」を知るのである。この先は機微に触れる話となるので、時を改めて丁寧に描くことにしよう。

きょうは3.11。失われた命の数々に、翻弄された人生の数々に、しずかに想いを寄せたい。

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