立憲民主党の枝野幸男代表が衆院選惨敗の責任をとって辞任する意向を表明した。
野党第一党の党首が「政権選択の選挙」で政権交代を実現できなかった時、引責辞任するのは当然である。しかも立憲民主党の議席を減らすという「惨敗」に党内外から批判が強まり、早期の代表辞任は避けられない情勢だった。
来夏の参院選に向けて立憲民主党は野党のリーダーとして早急に体制を立て直す必要がある。「我こそは」と思う政治家は代表選に積極的に名乗りをあげてほしい。
最大の争点は「野党共闘」のあり方であろう。徹底的に討議し、自公与党に対抗できる野党共闘体制を構築してほしい。
枝野氏の「冷たい野党共闘」や無為無策の衆院選戦略について、私はこれまで繰り返し批判してきた。きょうはそこはひとまず脇に置き、「枝野氏辞任」の歴史的な意味を考えてみたい。
私が民主党を初めて担当したのは2001年、メインとして担当したのは当時幹事長の菅直人氏である。その菅氏が最も寵愛してきたのが若き日の枝野氏だった。
弁護士である枝野氏は政界再編がはじまる1993年衆院選に日本新党の公募候補として初当選し、29歳で国政デビューを果たした。96年の民主党結成に参加し、民主党の若手政策通として瞬く間に頭角を表した。菅氏は多数派工作や根回しよりも論戦力や政策力を好み、自らのスタイルと重なり合う枝野氏をとても気に入っていた。枝野氏を引き上げたのは菅氏であるといって過言ではない。
確かに枝野氏の切れ味は鋭かった。論理力・洞察力では政界屈指の存在だった。菅氏は民主党を自民党に対抗する二大政党の一翼に育てることに全力を傾注し、枝野氏を政調会長などの要職に次々と抜擢した。それは年功序列や当選回数を無視した「実力主義」そのものだった。
枝野氏は、長らく盟友であり2017年代表選を機に決別した前原誠司氏と並んで、1990年代の政界再編が生んだ民主党の「申し子」であり、二大政党政治の「寵児」といえるだろう。
一方で、聡明な枝野氏には「先が読めすぎる」という政治家としては重大な「欠点」があった。リスクを回避するため事前に行動を抑制する傾向は若い時から強かった。イケイケドンドンの菅氏と二の足を踏みがちな枝野氏はある意味でいいコンビであった。
菅氏に重用されて陽のあたる道をつねに歩んできた枝野氏に対し、民主党内の「嫉妬」は高まった。菅氏と枝野氏に対する党内の風圧は強かった。とくに旧民社党系の労組出身議員たちは菅氏や枝野氏を毛嫌いした。民主党代表選になると、「アンチ菅・枝野」の議員たちは大挙して鳩山由紀夫氏を担ぎ出し、数の力で圧倒するという構図が繰り返された。菅氏も枝野氏も党内基盤は弱く、党内政局に弱かった。
枝野氏は「菅派」と呼ばれるのを嫌がり、菅氏と同世代でライバルでもあった仙谷由人氏を後見人と称してきた。それは「親中派」と言われるのを嫌って「親台派」であることを強調したり、「左派」と言われるのを嫌って「改憲論議」に積極的に参加したりすることと同様、枝野氏に通底した行動原理であった。
それでも菅氏の枝野氏への評価は変わらなかった。菅氏が首相となり官房長官に枝野氏を起用したのは、自然の流れであっただろう。
その枝野氏が2017年衆院選で、小池百合子氏が旗揚げした「希望の党」から菅氏らとともに「排除」され、絶体絶命の危機に追い込まれ、切羽詰まって立ち上げたのが立憲民主党である。結局、希望の党は枝野氏らの「排除」で失速し、野党第一党の座を手にしたのは、排除された枝野氏の立憲民主党だった。
当時の「右でも左でもなく前へ」という枝野氏の街頭演説には迫力があった。左に偏りすぎては政権交代は実現できず、政治的主張をつねにぼかして中道寄りのポジションをとるという「二大政党政治の掟」が枝野氏の脳裏には強く刻まれていた。私はその演説をみて、枝野氏はやはり民主党の「申し子」であり、二大政党政治の「寵児」であると強く思ったものだ。
その枝野氏がつまずいたのは2019年参院選だ。政界エリートの枝野氏の想像を超える政治家が登場したのだった。山本太郎氏である。
れいわ新選組をたったひとりで旗揚げし、重度障害者や非正規労働者、シングルマザーら厳しい暮らしに直面している「無名の当事者たち」を候補者として担ぎ出し、難病患者と重度障害者の二人を当選させ、山本代表自らは落選するという2019年参院選の「れいわ物語」は、立憲民主党の誕生物語を超える「感動ストーリー」だった。
つねに弱者の側に立ち、与野党が共有してきた「政界の常識」を超えて消費税廃止を訴え、圧倒的なカリスマ性を発揮して聴衆を熱狂させる山本氏を、枝野氏は脅威と感じたに違いない。枝野氏は少年時代から田中角栄の派閥闘争を伝える政治記事にかじりついていたというが、「先が読めすぎる」枝野氏は山本氏の姿に、「中卒」から首相へ上り詰めた田中角栄の姿を重ね合わせたのではないかと私は思っている。
枝野氏は山本氏との連携を頑なに拒み、山本氏が求める消費税減税も受け入れず、山本氏の存在を無視するような姿勢をとり続けた。枝野氏の旧知のブレーンらが何度も山本氏との間を取り持とうとしたが、まったく関心を示そうとしなかった。山本氏との距離はどんどん離れていった。
山本氏が東京都知事選に敗北し、さらにはれいわ新選組の党運営でつまづいて失速した後、枝野氏はようやく消費税減税を「時限的」に受け入れた。しかし、その後も山本氏と関係を強めるそぶりをみせず、今回の衆院選では山本氏の東京8区出馬について事前交渉していたのに梯子を外し、小選挙区から出馬できない事態に追い込んだ。山本氏への態度は終始一貫して冷淡だった。
枝野氏の一連の対応をみていると、枝野氏は山本氏を自らの立場を揺るがす「脅威」として警戒したことに加え、そのカリスマ性に相当な「嫉妬」を抱いたように思える。立憲民主党を支持してきた数多くの知識人や文化人が山本氏に肩入れするのも見たくない現実だった。そのころから枝野氏は野党全体よりも立憲民主党のこと、さらには自分自身の地位保全を重視するようになった。
どんなに優秀な人でも「嫉妬」にとりつかれると「全体像」を見誤るものだ。民主党時代に数々の嫉妬を浴びてきた枝野氏が、代表に就任して自らの心にわいた嫉妬に足元を救われたとしたら、なんと皮肉なことか。
小池氏に排除されたことで誕生した立憲民主党の「誕生物語」は、山本氏という「新しいスター」の誕生に枝野氏が心を掻き乱されたことによって、一挙に色褪せてしまった。山本氏の勢いを水面下で削ぐ政界工作が国民受けするはずがない。立憲民主党は山本氏の登場によって「自民党への挑戦者」から「野党第一党の座を守る防衛者」に変節してしまったのだ。
山本氏の政治手法は、従来の二大政党政治とはまるで異なる。支持者たちは極めて熱狂的で活動量が中途半端ではない。自民党総裁選で安倍晋三氏が支持した「極右」の高市早苗氏を熱狂的に応援したネトウヨたちと、その熱烈さにおいて、ある意味で左右の対称をなすといえるだろう。
自民党も民主党も世襲政治家や官僚OB、弁護士らエリート層が仕切るという意味ではさして変わらない。れいわは異次元の政党だ。「与野党のどちらか」を二者択一の消去法で選ぶという二大政党政治の枠内にとどまらない破壊力がある。洞察力に優れた枝野氏は、他の政治家以上に、山本氏の将来性に極度に反応したことだろう。
枝野氏の「退場」は1990年代の民主党誕生から続く「二大政党政治」の終焉を象徴するものであると私は思う。
自民党か民主党かという「二者択一」を「消去法」で有権者に迫る政治は、デジタル化で価値観が多様化した現代社会になじまなくなっている。それなのに無理やり「二者択一」を迫った結果、「どちらも選べない」という有権者が増大し、投票率低下に拍車をかけている。
今回の衆院選は戦後三番目に低い55%。投票率が上がらない最大の要因は「与党候補と野党候補のうち、よりマシな方を消去法で選べ」という上から目線の政党の姿勢にあるのではないか。有権者は「二者択一の消去法」より「熱烈に支持する政党」を求めているのではないか。
二大政党政治の寵児である枝野氏はまさに「低投票率」に沈んだのだった。
もはや「二者択一」や「消去法」で政治は動かない。有権者を引き寄せることができるのは、他には代替できないオリジナルな魅力だ。大衆を動かす「熱狂的な支持」や「感動物語」が不可欠なのだ。
そのためには政治信条や選挙公約はクリアでなければならない。「何を目指すのか」があいまいな政党はどんどん埋没していくだろう。その筆頭に立つのが「中道路線」で幅広い支持を得ようとしてきた自民党と立憲民主党だ。
主張が曖昧で埋没していく自民・立憲の二大政党、老舗の組織政党である公明・共産、新興勢力の維新・れいわ。今回の衆院選は、この6党の政党間協議や選挙協力を通じて政治が動く「多党制時代」の幕開けである。
枝野氏が表舞台を去り、山本氏が表舞台へ返り咲く。今回の衆院選の大きなトピックスはここにある。新旧主役の交代は、二大政党政治が終焉し、本格的な多党制時代に突入することを象徴しているといえよう。