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捜査機関の「証拠捏造」によって袴田さんの死刑判決が確定していたという重い事実を高裁が認定。それでも証拠捏造を認めず謝罪しない検察の傲慢

高市早苗・経済安保大臣が総務相を務めた時代に作成された行政文書を「捏造」と断言し、「捏造」でなければ議員辞職すると啖呵を切った問題で国会は大揺れだが、「捏造」とは本来こういう意味であるということを明示する出来事が司法の世界で起きた。

強盗殺人罪で死刑判決が最高裁で確定していた袴田巌さん(87)について、東京高裁が裁判をやり直す再審開始を認めた静岡地裁判決を支持して検察側の即時抗告を棄却したうえに、死刑判決の根拠となった「犯行時の着衣5点」について、捜査機関が捏造した可能性が極めて高いと指摘したのだ。

弁護団の戸舘圭之弁護士が高裁決定文の一部をツイッターで示している。確かにそこには以下のような衝撃の記述がある。

5点の衣類が1年以上みそ漬けされていたことに合理的な疑いが生じており、5点の衣類については、事件から相当期間経過した後に、A以外の第三者が1号タンク内に隠匿してみそ漬けにした可能性が否定できず(この第三者には捜査機関も含まれ、事実上捜査機関の者による可能性が極めて高いと思われる)…

高裁決定の詳細はマスコミ報道を参照してほしいが、要は袴田さんの死刑判決の根拠になった証拠は捜査機関によって捏造された可能性が極めて高いと高裁は判断し、死刑判決は間違っていたと事実上認め、裁判のやり直しを求めたのである。

殺人事件が起きたのは57年前の1966年。最高裁が死刑判決を確定させたのが43年前の1980年。袴田さんはそれ以来ずっと死刑囚だった。日弁連のホームページに記載された「事件の経緯」は凄まじい内容なのでぜひ一読してほしい。

警察は、逮捕後連日連夜、猛暑の中で取調べを行い、おまるを取調室に持ち込んでトイレにも行かせない状態にしておいて、袴田氏を自白に追い込みました。袴田氏は9月6日に自白し、9月9日に起訴されましたが、警察の取調べは起訴後にも続き、自白調書は45通にも及びました。なお、弁護人が袴田氏に会った時間はこの間合計で30分程度でした。

袴田氏の自白の内容は、日替わりで変わり、動機についても当初は専務の奥さんとの肉体関係があったための犯行などと述べていましたが、最終的には、金がほしかったための強盗目的の犯行であるということになっていました。

さらに、当初から犯行着衣とされていたパジャマについても、公判の中で、静岡県警の行った鑑定があてにならず、実際には血痕が付着していたこと自体が疑わしいことが明らかになってきたところ、事件から1年2か月も経過した後に新たな犯行着衣とされるものが工場の味噌樽の中から発見され、検察が自白とは全く異なる犯行着衣に主張を変更するという事態になりました。

第1審の静岡地裁は、自白調書のうち44通を無効としながら、1通の検察官調書のみを採用し、さらに、5点の衣類についても袴田氏の物であるとの判断をして、袴田氏に有罪を言い渡しました。

この判決は、1980年11月19日、最高裁が上告棄却し、袴田氏の死刑が確定しました。

弁護団はその後、「新たな証拠」を提示して再審を求めつづけたが、裁判所ははね続けた。ついに司法が動いたのは2014年、静岡地裁が再審を開始し、死刑と拘置の執行を停止する決定をして、袴田氏は釈放されたのだ。すでに事件から48年も経過していた。

そして今回(2023年)の高裁決定で「捜査機関による証拠捏造」の可能性がついに裁判所によって指摘されたのだ。

事件から57年の歳月が流れ、証拠を捏造したと見られる警察官も、証拠が捏造されたことに気づかず(あるいはそれを承知で、あるいはそれに加担して)袴田さんを起訴して死刑を求刑した検察官も、それを鵜呑みにして死刑を命じた裁判官も、そして警察発表や死刑判決を疑うことなく垂れ流した新聞記者も、当事者の多くはもはやこの世にいないだろう。

怒りが収まらないのは、検察がこの期に及んで「主張が認められず遺憾。内容を精査し適切に対処したい」(東京高検の山元裕史次席検事)というコメントを平然と出したことだ。ここには「検察は決して間違えない」「間違えてもそれを認めない」という官尊民卑の思想が色濃くにじんでいる。最低の組織である。

本来なら検察トップの検事総長が記者会見して国民に謝罪すべきだ。死刑囚として半世紀を過ごした袴田さんの人生を何だと思っているのか。

検事総長を記者会見に引っ張り出さないマスコミ社会部の司法記者たちもいつもながら情けない。検察官も社会部記者も「正義のミカタ」のフリをして、実のところその多くはバリバリの権力志向である。欲丸出しの政治家や政治部記者よりもタチが悪いと私は常々思っている。

袴田事件の重い現実から、私たちは以下の点を改めて確認しなければならない。

① 警察や検察は証拠を捏造して犯人をでっち上げることがある。捜査機関はとても危険だ。信用できない。

② 裁判所は無実の人に死刑判決を下すことがある。判決といえども信じ込んではいけない。

③ マスコミは警察・検察という国家権力のウソをそのまま垂れ流す。まったく役に立たない。

④ 警察・検察・裁判所という国家権力はいったん間違った決定を下すと、その誤りを認めない。

⑤ 国家権力によって人生を滅茶苦茶にされても、当事者たちは誰も責任を取らず、安穏とした人生を送る。

国家権力もマスコミも間違えることは多々あり、政府発表やマスコミ報道を鵜呑みにしてはいけないということである。

これは57年前に限らず、今の時代にもあてはまる。ウクライナ戦争にしろ、コロナワクチンにしろ、政府やマスコミが流している情報は極めて一面的なもので、そこには彼らの利害や保身が隠されている。

国家権力はつねに批判的に監視し、多様な情報を照らし合わせながらみんなでチェックしていくしかない。そのために言論の自由は絶対に不可欠なのだ。

そして何より重要なのは、「国家権力は間違えない」「特に裁判所の判決は常に正しい」という大きな虚構を前提に死刑制度が維持されていることである。これは私たちの国家が人権後進国・二流国であることを決定づける事実だ。

無実でありながら死刑判決を受け、国家権力によって合法的に殺され、今なお汚名を着せられたままの人は数知れない。国家権力にいかなる命も奪う権利はない。死刑制度は官尊民卑のシンボルである。一刻も早く廃止しなければならない。

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