いったい何のための安倍国葬だったのだろう。誰のための国葬だったのだろう。
台風15号に襲われた静岡県への自衛隊派遣を求める声が高まるなか、岸田文雄首相は都心の高級ヘアサロンで散髪して「弔問外交」と「国葬」に備えた。
NHKは国葬前日から「弔問外交」のニュースを何度も流した。「賛否両論があるなかでの国葬」と伝えながらも、安倍国葬のどこに問題があるのか深掘りして報じる気配はなかった。
自衛隊は1390人を投入し、安倍氏の遺骨が自宅を出発する際に弔意を示す儀仗を実施するほか、弔意を表す「弔砲」や音楽隊による「奏楽」、沿道で敬礼する「と列」を展開した。「国威発揚」というか「隊威発揚」の絶好の機会と息巻いたのだろうが、ツイッターでは「#国葬よりも静岡救済」がトレンド入りした。
警察は都心で厳戒態勢をとり、首都高速道路を封鎖。都内各所で実施された検問は、誰から何を守るためのものだったのだろう。全国から都心へ動員された警察官たちも、心なしか小さく見えた。
安倍氏の葬儀(家族葬)は7月12日に東京・増上寺で終わっている。自民党の麻生太郎副総裁が弔辞を述べ、政財官界の要人が多数駆けつけ、自衛隊の儀仗隊も参列し、マスコミは大々的に報じた。「弔意」はこの葬儀(家族葬)で十分に示されたはずである。そのうえに国葬をあえて実施する意味はどこにあるのだろう。
あれから2ヶ月半の月日を経て、いまさら国論を二分し、多数派の反対論を振り切り、社会を分断し、莫大な税金を投じてまで、法的根拠のない安倍国葬を強行実施する意味は、どこにあるのだろう。国民の多数が歓迎しない国葬を行なって、何か良いことがあるのだろうか。
なにもかもがわからないまま、なし崩し的に安倍国葬は実施された。
岸田首相はそもそも国葬には乗り気ではなく、麻生副総裁に「これは理屈じゃねんだよ」と押し切られて国葬実施を決めたという。しかし、国葬は多くの国民に歓迎されるという思いもあったはずだ。
その予測は見事に外れ、内閣支持率は急落した。岸田首相はさぞかし後悔したことだろう。それなら国葬を撤回すればいいのに、それもできない。決断力や実行力がまるでないのだ。
一度決まったことは惰性で動いていく。そこには原則も理屈も情熱もない。決まったことには抗わず、黙って従う。日本という衰退国家の現状を映し出す国葬だった。
立憲民主党やマスコミが掲げた「安倍国葬への反対論」で私が気になったのは、「法的根拠がない」「実施決定に国会の関与がなかった」などという手続きの不備を理由にしたことである。
法的根拠がないことや国会の関与がなかったことはたしかに問題である。それ自体に異論はない。
私が疑念を感じたのは、仮に岸田政権が国葬実施法案を国会に提出していたら立憲民主党やマスコミはそれに賛成したのか、岸田政権が同法案を強行採決していたらどう対応したのか、ということだ。
私が国葬に反対する主要な理由は『安倍氏は天皇じゃない!権威と権力の峻別をあいまいにする「国葬」の危うさを今日こそ噛み締めよう!』で示したとおり、①権威と権力を峻別している日本国憲法下において、そもそも権力者=政治家の国葬は実施すべきではない②国葬は国民の統合・連帯感を高めることが目的なのに、国論を二分するかたちの国葬を実施するのは自己矛盾であるーーの2点である。
岸田政権が国葬実施にあたり国会を関与させたとしても、国葬法案を整備したとしても、この立場に変わりはない。つまり「手続き論」ではなく「本質論」として、安倍元首相に限らず政治家の国葬実施そのものに反対しているのである。
だが、立憲民主党やマスコミは「手続き論」による反対に逃げ込み、「本質論」を避けている。仮に岸田内閣が国会と事前協議していたら、立憲民主党やマスコミはいまより窮地に立たされただろう。おそらく立憲民主党の多くの国会議員は「強行採決であっても決まったことには従う」として国葬に参加していただろうし、マスコミはいま以上に国葬礼賛報道を展開していたに違いない。
その意味で岸田内閣が国会の関与を経ずに一方的に国葬実施を決めたのは政治的に稚拙だったし、そのおかげで立憲民主党やマスコミは救われたともいえる。
内閣が元首相の国葬実施法案を提出したら断固反対し、与党の強行採決で法案が成立しても抗議の欠席をするーーそれこそ、権威と権力を峻別する日本国憲法にのっとった政治的態度である。
そうした本質論を深めず、手続き論で誤魔化したことも、この国の民主主義やジャーナリズムの未熟さを浮き彫りにしたといえるだろう。
安倍元首相の遺骨をのせた車列は、安倍宅からわざわざ防衛省を経由して日本武道館へ向かった。遺族の意向だという。
安倍政権は国論を二分する中で集団的自衛権の行使を認める解釈改憲に踏み切った。安倍政権がゴリ押しした安保政策は日本社会分断の象徴である。
自衛隊の儀仗隊の印象が強く残る国家儀式だった。安倍元首相が自衛隊を憲法9条に明記する改憲案を主張したことに反発する人々は抵抗を感じたに違いない。
日本武道館の祭壇には安倍氏を政治家として台頭させた拉致問題への活動を象徴するブルーリボンバッチが置かれた。安倍政権の権力私物化を象徴する森友事件の渦中に身を置いた安倍昭恵夫人が喪主として遺骨を抱えて来場したことにも驚いた。国家儀式である国葬の「喪主」を昭恵夫人が務めることをどう説明するのだろう。首相夫人は公人か私人かという論争を思い出した。
政府が制作したビデオが会場に流れ、貧富の格差を広げたアベノミクスや対米追従を深めた安倍外交を誇らしげに振り返った。いずれも国論を二分した問題である。(汚職事件の捜査が進む東京五輪については控えめに触れただけなのには苦笑した)
岸田首相に続き、統一教会問題の渦中にいる細田博之衆院議長が追悼の辞を述べた時は、目を塞ぎたくなった。
東京五輪汚職の渦中にいる森喜朗元首相を筆頭に、自民党の麻生太郎元首相と立憲民主党の野田佳彦元首相が並んで献花する様子は、今世紀に入ってこの国が凋落した歴史を象徴する場面のように思えた。
国葬セレモニーを仰々しく生中継するテレビ特番に違和感を覚えた国民は多いだろう。やはりこの国葬は日本社会の分断を深めただけだと強く思った。