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小西議員の失言を高市大臣「捏造」発言や首相秘書官の差別発言、安倍政権の「報道への圧力」と同列に扱うマスコミ報道〜「価値の軽重」を見失った日本ジャーナリズムの劣化

放送法の政治的公平の解釈変更をめぐる総務省の内部文書を入手し、高市早苗大臣を追及する先頭に立ってきた立憲民主党の小西洋之参院議員が、憲法審査会をめぐって「失言」したことに対する非難が強まっている。立憲の泉健太代表が小西氏を処分して憲法審査会の役職を解任したことが「小西バッシング」に拍車をかけ、立憲は自滅した格好だ。

立憲は次の総選挙で日本維新の会と選挙協力を実現して現職の議席を守るため、維新と国会共闘を進め、さらには安保政策など政策面でも維新と歩調をあわせることに躍起になっている。維新は立憲の足元をみて改憲や原発推進でも立憲を引き寄せようとしてきた。

衆院憲法審査会の毎週開催は維新が主張し、立憲が同調した結果として定着したものだった。小西氏は改憲慎重派であり、維新に立憲が付き従うかたちで改憲論議が進むことへの警戒感が「毎週開催はサルのやることだ」という記者団へのオフレコ発言につながったのだろう。

維新は小西発言を激しく批判して立憲に小西処分を迫り、立憲との政策協調を凍結した。立憲はこれに応じて小西氏を厳重注意し、憲法審査会の役職を解任したが、維新は不十分だとしてさらなる処分を求めて政策協調の凍結を続けている。立憲に「踏み絵」を踏ませることで、立憲に対する維新の優位を印象付けるとともに、目下の統一地方選で立憲に打撃を与えて維新への支持を広げる狙いもあるのだろう。

ここまでの展開と政局全体に与える影響は『立憲自滅で早期解散論強まる!高市早苗大臣の追及より維新との共闘を優先して小西洋之参院議員を解任・処分した立憲・泉健太代表』で詳しく解説したが、それに加え、今回は小西氏を批判するマスコミ報道への懸念を示したい。

小西氏には二つの失言が指摘されている。

ひとつめは憲法審査会の毎週開催を「サルのやること」と揶揄した発言だ。人間をサルに例えることは、西洋の近代化から遅れた東洋(日本を含む)を蔑視する際に使われた歴史的経緯もあり、不快を感じる人は少なくないだろう。国会議員の言葉として不適切であったのは間違いない。

しかし、岸田内閣の首相秘書官が性的少数者を「見るのも嫌だ。隣に住んでいるのもちょっと嫌だ」と蔑視して国際的批判を浴び更迭されたケースとは根本的に違う。首相秘書官の発言は政治的・社会的立場の弱いマイノリティーに向けられたものなのに対し、小西氏の発言は改憲論議を推進する与野党の国会議員を批判したものだ。

人間をサルに例える言葉遣いは品位を欠くものの、社会的弱者を蔑視した発言とは質的に異なり、本質的には政治家同士の権力闘争に伴う「ののしりあい」である。私は20年以上、永田町で権力闘争を追いかけてきたが、この程度の激しい言葉が飛び交うのは日常茶飯事だった(永田町の風習や慣行を容認しているのではなく、実態はそうであったという事実を伝えている)。

このような政治家同士の応酬と、性的少数者ら社会的弱者への蔑視発言を同一視して論じるのは、出来事の価値の軽重を区別せずに同列に扱う劣悪な報道姿勢である。高市大臣の「捏造」発言をはじめ、国会で繰り返される政治家や官僚の支離滅裂な発言(虚偽答弁を含む)と並列して「高市大臣に辞任を迫ったのだから、小西氏も辞任すべきだ」と主張するのも同様だ。政治家を「揶揄」することと、国会で国民に向かってウソをついたり誤魔化したりすることを同列に扱うのは、あまりにバランスを失している。

賛同できるかどうか、適切かどうか、非難に値するかどうか、違法かどうか、犯罪かどうか、逮捕すべきかどうか…。物事を判断する際の指針はさまざまだ。次元の異なる問題を一緒くたにして「首相秘書官や高市大臣も悪いが、小西氏も悪い」と打ち消すのは、政権与党に肩入れする偏向報道以外の何者でもない。

首相秘書官の蔑視発言は更迭に値するし、高市大臣の「捏造でなければ議員辞職する」という国会答弁も白黒はっきりさせなければいけない発言だが、小西氏の国会議員を揶揄する「サル発言」は本人が謝罪して撤回した以上、厳重注意にとどめる程度の話であり、役職を解任したり、ましてや議員辞職を迫ったりする内容ではなかろう。まさに価値の軽重を適切に判断しない政界やマスコミの「反知性主義」を映し出しているといってよい。

小西氏が批判を浴びているふたつめは、「報道への圧力」である。

小西氏は「サル発言」を報じた産経新聞やフジテレビを名指しし、ツイッターに「今後一切の取材を拒否する」と投稿。NHKを含め「あらゆる手段を講じて報道姿勢の改善を求めたい」と法的措置を示唆し、活動資金の寄付を呼び掛けた。「報道倫理に反して攻撃的な報道を行うのはおよそ言論報道機関とは言えない。元(総務省)放送政策課課長補佐にけんかを売るとはいい度胸だ」と投稿したこともあった。

一連の投稿に対し、政界やマスコミ界は一斉に「報道への圧力」と批判を強めている。小西氏が安倍政権の「報道への圧力」を批判しておきながら、自らも「報道への圧力」を加えているのではないかという批判だ。

たしかに小西氏の投稿には私も賛成できない。誤報や不適切な報道に対して抗議・批判する権利は国会議員にもあるが、国会議員という公職にある以上、一般の人々に比べて批判的報道を甘受すべき範囲は広いと考えるべきで、やたらと法的手段をちらつかせて強硬姿勢をみせるのは控えるべきであろう。

さらに小西氏の強硬姿勢は、政治闘争のやり方としても稚拙だ。放送法の政治的公平を訴え、テレビ報道への介入を批判してきた立場を踏まえるならば、自分自身への批判的報道に対するリアクションには人一倍気をつけるという政治的配慮が、政治闘争を制するには不可欠である。

だが、小西氏が政治的配慮を欠いて稚拙であるということと、小西氏の一連の投稿を「報道への圧力」と認定してマスコミが大々的に批判するのは別問題である。

そもそも小西氏が問題視していた「報道への圧力」は、国家権力が放送法の許認可権を背景にテレビ局に対して番組内容を自らに有利になるように、あるいは批判的な内容をやめさせるように迫る行為である。

実際に安倍政権では首相官邸がNHK人事に介入し、テレビ朝日の報道ステーションやTBSのサンデーモーニングの番組内容を批判し、テレビ各局はそれに恐れおののいて安倍政権への忖度報道を重ねた。それによって安倍政権への批判的報道は激減し、国民は安倍政権の腐敗の実像を知らされず、内閣支持率は高止まりし、憲政史上最長の政権となった。「国家権力=政権与党」がテレビ報道に介入し、それによって報道内容が歪み、国民をミスリードすることこそが重大問題なのである。

小西氏は一介の野党の参院議員でしかない。国政調査権を持ち、国会で質問できるなど、さまざまな特権を有しているものの、政権与党が握るテレビ局への影響力に比べると、小西氏のそれは微々たるものだ。ましてや放送法を所管してテレビ局の許認可権を握る総務大臣の権限とは雲泥の差がある。

小西氏の一連の投稿は「報道への圧力」というよりも「報道への批判」というほうが正確だ。批判のやり方が世論に受け入れられるかどうかが問われているのであって、小西氏の投稿にテレビ局が怯えて小西批判を控える事態は想定できない。その証拠に、安倍首相に媚びへつらう報道を重ねていたマスコミ各社は今、小西氏を「水に落ちた犬」のように叩いている。国家権力を握っていない野党の一介の参院議員だからこそ、反撃を恐れることなく叩きまくっているのである。

ここにも「国家権力による報道への圧力」と「野党議員による報道への批判」を混同し、価値の軽重の区別をしないまま同列に報道し、結果として政権与党を利するマスコミの「偏向報道」の実態が浮かび上がる。

兵庫県明石市の泉房穂市長が長年の政敵である自民党の市議会議長らに対して「選挙で落としてやる」と暴言を吐いたことをマスコミが自民党に歩調をあわせて「パワハラ」「暴言」を激しく批判した時も、私は大いに違和感を抱いた。自民党が泉市長の追い落としを狙って「暴言」を強調し権力闘争を仕掛けているのに、マスコミがそのままのっかっている〜つまり自民党に加担して報道している〜と感じたのである。

今回の小西批判報道にもまったく同じ感想を持った。マスコミは価値の軽重を区別することなく、強い立場にある者には忖度し、弱い立場にある者や落ち目の者にはここぞとばかり批判を浴びせ、その結果として政権与党を利する「偏向報道」を平然と続けている。権力を監視するどころか権力と一体化しているのが今のマスコミの実像だ。

さらに立憲執行部は、政権批判の先頭に立ってきた小西氏を守るのではなく、政権与党やマスコミと一緒になって小西氏を叩いているのだから、自分たちの保身を優先して政権を監視する野党第一党の役割を放棄しているとしかいいようがない。そんな野党に党勢拡大を果たせるわけがない。


小西問題をYouTube動画で徹底解説しました。立憲の小西処分が与える政局への影響を読み解いています。ぜひご覧ください。

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