秋篠宮家の長女眞子内親王と小室圭さんが10月26日に結婚し、記者会見する。小室さん側の金銭トラブルに対する世論の強い反発を受けて、結婚に伴う儀式は行わず、皇室を離れる際の一時金も支給されない。日本の皇室の歴史において異例の結婚となる。
世論の関心は異様に高く、マスコミ報道は過熱してきた。とりわけ民間人である小室さんに対する誹謗中傷をあおるかのような報道ぶりに、私は強い違和感を覚えている。
小室さんに説明責任を促す発信を続け、世間の批判を小室さんに振り向けてきた皇室や宮内庁の対応にも疑問を感じてきた。この結婚について国民に理解を求める責任を負っているとすれば、それは民間人の小室さんではなく、皇室(眞子内親王を含む)や宮内庁をはじめとする国家権力の側である。
マスコミが小室さんへの批判に明け暮れ、国家権力側に説明責任を迫らないのは、報道機関の「権力監視」の責務から大きく逸脱しているというほかない。
皇室や宮内庁の意向を忖度し、ある時は小室さんを叩き、ある時は結婚を祝福する報道を重ねる宮内庁記者クラブの社会部記者たちの癒着ぶりを改めて痛感する。国家の統治機能に組み込まれ、巨額の税金が注ぎ込まれている皇室の監視こそ、皇室担当記者の最大の責務であることを忘れてはならない。
この問題の本質は小室さん側の金銭トラブルではない。日本国憲法が定める「象徴天皇制」に内在する根本的な矛盾である。「自由・平等・民主主義」といった人類普遍の価値を至上に掲げながら「天皇」という究極の身分階級を設ける日本国憲法の矛盾が、戦後76年の時を経て、眞子内親王の結婚問題で一挙に吹き出したと私は思っている。
皇室に巨額の税金を投入することや眞子内親王と結婚する小室さんを特別に優遇することに対して、かつては想像できなかったような激しい批判がネット上に溢れている。皇室を離れる際の一時金を支給しないという判断に追い込まれたのは、このような厳しいネット世論の影響に違いない。
マスコミ各社は「小室さん批判」に矮小化して象徴天皇制に内在する本質的矛盾から世間の目を逸らそうとしてきたが、その思惑とは裏腹に、マスコミの皇室報道自体への不信感も膨れ上がっている。もはや宮内庁記者クラブ加盟のマスコミをコントロールする宮内庁の「報道統制」で皇室批判を封じ込める時代ではなくなった。
天皇家は第二次世界大戦に敗北して日本が焦土と化した戦後混乱期以来の危機に立っているといえよう。
ジャーナリズムがいま果たすべき最も重要な役割は、小室さん側の金銭スキャンダルを追いかけることではない。今回の結婚を通じて露呈した象徴天皇制の矛盾について諸問題を整理し、今後の天皇制のあり方を問題提起することである。
今回の結婚について議論するにあたり、何よりも先に議論しなければならないのは「象徴天皇制は何のためにあるのか」ということである。これを抜きに「眞子内親王の気持ち」や「小室さん側の金銭スキャンダル」についてあれこれ議論を重ねても噛み合わない。これは一般人の結婚ではないのだ。
今回の騒動は「象徴天皇制」における皇室の結婚という特殊な事情で露呈した国家統治のあり方に直結する極めて政治的な問題である。一般的な「個人の自由」「基本的人権の尊重」「ジェンダー平等」という視点だけでは解決できないことを再確認することが必要だ。
まずは日本国憲法が定める象徴天皇制を確認しよう。
第1条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。
天皇は「日本国の象徴」「日本国民統合の象徴」であり「日本国民の総意」に基づかなければならない。よく考えれば、すごい規定である。「すべての国民」にその地位を承認してもらわなければならないのだ。
天皇制廃止論者は必ず存在するのだから、現実的には無理な話である。しかし、天皇(皇室)は少なくとも「国民の統合」として立ち振る舞い、「国民の総意」を得るために全力を尽くす責務を日本国憲法から課されていると言えよう。
多くの国民から祝福を得られない眞子内親王の結婚に皇室が後ろ向きにならざるを得ないのは、この憲法1条の規定による。憲法24条で一般国民に保障された「婚姻の自由」は、皇室にはそのままは適用されないのだ。日本国憲法は皇室に対して一般国民と同等の基本的人権を保障していないと解するべきである。
第2条 皇位は、世襲のものであって、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する。
皇位の「世襲」を規定した憲法2条も「自由と平等」を重視する日本国憲法の精神と相入れない。「政治家は世襲とする」という法律があれば、間違いなく憲法違反だ。その「世襲」が皇室には「義務」として課されていること自体、象徴天皇制に内在する大きな矛盾を映し出している。
皇室典範は皇室のあり方を規定した法律である。象徴天皇制や「世襲」を廃止するなど根本的に制度を変更する場合は日本国憲法の改正が不可欠で、現実的問題として膨大な政治的エネルギーを費やすことが避けられない。しかし、憲法の範囲内で皇室のあり方を修正するのなら法律(皇室典範)改正で対応できる。女系天皇や女性天皇を認めることは法律改正で実現可能だ。
第3条 天皇の国事に関わるすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負ふ。
天皇(皇室)は一般国民ではない。国家統治機構の一部として「国事」を行う。しかし、すべての行為には「内閣の助言と承認」が必要だ。自分の信じるままに「国事」を行ってはいけない。内閣に言われるままに行動しなければならない。その代わりに「責任」も負わない。
この「国事」の定義が難しい。定例の記者会見はどうなのか? 結婚や結婚に伴う儀式は? どこまでが「国事」でどこからが「私事」なのか。一般的には「国事」と判断される恐れが少しでもある言動は極力控えなければならないと解される。だからこそ秋篠宮家や宮内庁は今回の結婚についても対外的発信に極めて慎重なのだ。この憲法3条からも、皇室は一般国民よりも基本的人権が大幅に制約されていることがわかる。
一方で、皇室の結婚について内閣がどこまで「助言と承認」を行うことができるのかも判断が難しい。結婚そのものは基本的には「国事」とは言えないが、皇室制度が「世襲」で成り立っている以上、皇室の結婚という行為を完全に私的行為と言い切れるかどうかは議論の分かれるところだ。ここにも現代日本の象徴天皇制の矛盾が現れている。
第8条 皇室に財産を譲り渡し、又は皇室が、財産を譲り受け、若しくは賜与することは、国会の議決に基かなければならない。
結婚して皇室を離れる際の一時金が今回は大きく注目されたが、皇室は憲法8条によって、憲法29条が一般国民に保障している財産権も大きく制約されている。眞子内親王が一時金を受け取らずに皇室を離脱して結婚しても、その後に秋篠宮家が「私的に」生活費などを援助することは許されるのか。突き詰めていくとさまざまな問題が浮上してくるだろう。
日本国憲法が天皇(皇室)の「自由と権利」を一般国民よりはるかに大きく制約しているのは「日本国の象徴」「日本国民統合の象徴」として「日本国民の総意」に基づく存在であることを要請しているからである。
天皇(皇室)が一般国民と同様に自らの自由と権利を主張し、自らの幸福を追求して行動すれば、その過程で他の国民の自由や権利と衝突し、「日本国民統合の象徴」としての地位が揺らぎ、「日本国民の総意」に基づく存在ではなくなってしまう。誰も敵に回さず誰からも慕われる存在でなければ「国民の象徴」にはなり得ず、「国民の総意」は得られない。
立憲君主制を掲げた大日本帝国憲法下の日本に回帰する復古主義まではいかなくても、現憲法の象徴天皇制の考え方を徹底すれば、国民の連帯感を醸成して日本社会の安定を維持するため、天皇(皇室)は世論を二分する行為を極力避け、大多数の国民に祝福される行為に徹するべきであり、その結果として天皇(皇室)の幸福追求権は大きく制約されてもやむを得ないということになる。
象徴天皇制とは本来、そのようなものであろう。だからこそ、この国は都心の一等地に巨大な居住地(皇居)を確保し、巨額の税金を投じて皇室制度を保持しつづけてきた。日本国憲法が想定した「天皇(皇室)」は、すべての国民に慕われるように全力を尽くし、一部の国民であっても不愉快にさせることがないよう、全方位に気を配らなければならない存在なのだ。このため「素顔」や「内面」をみせることは極力慎まなければならない。巨額の税金を投じて品位ある暮らしを保つ正当性もそこにある。日本国憲法はそのような天皇像(皇室像)を要請しているのだ。
そこまで天皇(皇室)に自己抑制的な暮らしを求めるのは現実離れしているし、あまりに理不尽だーーという意見もあろう。私もそう思う。しかし、日本国憲法が要請している「象徴天皇像」はそのようなものであることは理解しなければならない。それがおかしいというのなら、本来は憲法を改正し、天皇制の廃止を含めて根本的に制度を変更するのが筋である。
一方で、「自由と平等」という人類の普遍的価値を日本国憲法よりも上位に置き、日本国憲法を時代に即して柔軟に解釈していくべきだという考え方も成り立つ。日本国憲法を改正するハードルが極めて高い以上、さまざまな事実行為の積み重ねを通じて国民的合意を得ながら「解釈改憲」を進めるのはひとつの選択肢だ(憲法9条も「解釈改憲」を重ねてきた)。
この立場に立つと、象徴天皇制を維持しつつも、個々の皇室の基本的人権はできる限り尊重していこうということになる。現実政治に影響を及ぼさない限りにおいて、天皇(皇室)の意向も最大限尊重していこうという考え方だ。現上皇の強い意向に基づいて退位が実現したのも、そのような時代の流れに沿ったものといえる。こうした考え方に立つ場合、皇室に与えられた数々の恩恵は最小限に抑制していくべきであり、皇室関連予算も徐々に縮小していくべきであろう。何よりも皇室行事の内実や皇室関連予算の使途についてもっと透明化することが欠かせない。
眞子内親王の意向を最大限に尊重して今回の結婚に対処するのも、このような皇室像を反映したものといっていい。眞子内親王の意思を最大限尊重して小室さんとの結婚に踏み切る代わりに「結婚の儀式を行わず、一時金も支給しない」という異例の措置をとることで国民の理解を得ようというものだ。
これは現状の象徴天皇制で許される現実的な措置だと私は思う。一方で、今回の措置はあくまでも「一時しのぎ」で、象徴天皇制に内在する本質的矛盾は何も解決されていないことを忘れてはならない。
伝統を重視する保守的な立場からは「国民の統合」である皇室に生まれた以上、結婚を含む「自由と権利」が大幅に制約されるのはやむを得ないということになる。この立場への賛否は別として、日本国憲法を文字通りに解釈すれば、この保守的な立場が理にかなっている。
もし皇室に一般国民と同等の「自由と権利」を認めれば、他の国民の「自由や権利」と衝突することは避けられず、「国民の統合」として「国民の総意」に基づく存在ではなくなるからだ。今回の眞子内親王の結婚問題は「国民の総意」に基づかない事例の典型といえるだろう。このような事例をなし崩し的に繰り返していくと、象徴天皇制自体の存続価値が消失するに違いない。保守的な立場の人々が眞子内親王の「婚姻の自由」を冷ややかに眺めているのはそれなりの理由がある。
これに対抗し、人類の普天的価値である「自由と平等」を重視して天皇(皇室)にも結婚を含む幸福追求権を最大限認めるべきだというリベラルな立場を主張するのなら、単に「婚姻の自由は憲法で保障されている権利だ」と言う論理だけでは不十分である。繰り返すが、日本国憲法は皇室に対して一般国民と同様の「自由と権利」を保障していないのだ。
このようなリベラルな立場を追求するのなら、国家が特別な階級身分を設ける象徴天皇制自体が「自由・平等・民主主義」を掲げる日本国憲法の根幹に矛盾するものであり、憲法を改正して象徴天皇制を廃止すべきだという議論は避けて通れない。象徴天皇制が消滅すれば、皇室は一般国民と同様の「自由と権利」を手にすることができ、その代わりにさまざまな恩恵を放棄することになる。それこそ、「自由・平等・民主主義」を重視するリベラルが本来とるべき立場であろう。
そこまで急進路線をとるのではなく、象徴天皇制を維持したまま皇室の「自由と権利」を認める幅を広げていこうというのなら、憲法の範囲内で許される象徴天皇制の新しい仕組みを提示しなければならない。リベラルな立場から主張される「眞子内親王の擁護論」に不足しているのはこの点だ。「私は皇室に生まれたが為に好きな人と好きな時に結婚することも自由にできない」という眞子内親王の心の叫びにこたえる皇室制度を具体的に提起する必要がある(皇室は「内閣の助言と承認」なくして政治的言動をとることが許されないのだから、これは国民の側が提起するしかない)。
私は男女問わず全ての皇族に成人した時点で「皇室に残るか、離脱するか」を選択する権利を付与することを提案したい。
皇室典範には皇籍離脱の規定があるものの、女性皇族が結婚することをのぞいて皇籍を離脱する道は事実上閉ざされているのが実態だ。「皇籍離脱の自由」をもっと幅広く認めたらどうだろう。成人した時点で男女問わず一律に、皇族に残るか、離脱するかを選択できる制度を導入すれば、皇籍離脱を望む皇族はそれに備えて未成年の時から準備を進めることができるのではないか。
離脱すれば一般の民間人である。一度離脱を選択すれば復帰できないのは当然だ。離脱すれば「婚姻の自由」を含めて一般国民と同じ「自由と権利」を手にする。その代わり結婚の儀式も一時金もない。皇室に残れば「自由と権利」は制約される。それは結婚しても変わらない。「国民の統合」として「国民の総意」に基づく存在に徹することが要請される。成人になった時点でその選択を求めるというのが私の提案だ。これは憲法を改正しなくても法律の改正で対応可能だろう。
保守派が心配するのは、皇籍離脱が相次いで天皇家が存続できない恐れがあるということだろう。象徴天皇制を維持するためには「男系主義」あるいは「血統主義」の見直し議論も避けて通れない。いずれにせよ、日本国憲法が規定する「世襲」の要件は満たす方法は数多くあるはずだ。
今回の結婚騒動を単に「婚姻の自由」という問題に片づけず、「象徴天皇制」の抱える根本的な矛盾を再考する機会とし、時代に即した制度への見直しが進むことを期待したい。