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敵基地攻撃能力を保有して軍拡競争に入る体力がこの国にあるのか〜人口減社会を直視した安全保障論を

岸田文雄首相が「敵基地攻撃能力」の名称変更を検討する考えを明らかにした。自民党の安倍晋三元首相らが「敵基地攻撃能力」の保有を声高に訴えていることに対し、名称を変更することによって議論の鎮静化を狙っているのか、あるいは、攻撃力増強のハードルを下げようとしているのか、首相の真意は見えてこない。

ウクライナをめぐる米ロ対立が緊迫し、台湾をめぐる米中対立への波及が指摘されるなか、日本でも安全保障問題の議論が高まる可能性がある。今夏の参院選に向けて安保論争を高めることで経済格差やコロナ失政が争点化することを避けようという与党の思惑もあるかもしれない。

そのなかで元外務審議官の田中均氏が「敵基地攻撃能力」保有への慎重論を毎日新聞(2月9日)に寄稿した。とても整理された内容だった。私もほぼ同意見である。きょうは田中氏の論考をもとに敵基地攻撃能力について考察しよう。

北朝鮮の相次ぐ弾道ミサイル発射を受け、発射前に発射拠点を攻撃して発射を防ぐ「敵基地攻撃能力」をめぐる議論は本格化してきた。田中氏は「座して自滅を待つべしというのが憲法の趣旨とは考えられない」とする鳩山一郎内閣の答弁(1956年)を引用し、「ミサイルが発射される明らかな状況にあるとき、その基地をたたくことまで禁じられているわけではない」との政府方針をまずは確認している。

そのうえで、日本が今日に至るまで、法的には可能な敵基地攻撃能力の保有を政策判断として見送ってきた理由を考察している。

ひとつは相手がミサイルを撃つ瞬間を捉えて基地を攻撃するのは軍事技術的に極めて難しいことだ。北朝鮮のミサイル発射技術はかなり向上しており、潜水艦や列車からなど発射方法も多様化している。発射拠点を正確に探知し、直前に攻撃するのは、相当高い軍事技術が不可欠であり、現実問題としてそれほどの軍事技術を保持することができるのかという疑問である。仮に可能だとしても、北朝鮮のミサイル技術も年々進化し、際限のない軍拡競争に陥る可能性が極めて高い。「敵基地攻撃能力を備えたから大丈夫」と安心できる軍事環境はいつまでたっても整わないのではないか。

二つ目は日本国憲法が求める「専守防衛」を超えるのではないかという懸念である。敵基地攻撃能力の性質上、一歩間違えれば「先制攻撃」として憲法違反となりかねない。日本は「専守防衛」の原則から長距離ミサイルや空母を持たなかったが、敵基地攻撃能力を保有するとなると、「専守防衛」の概念を広げてこれまで保有してこなかった兵器を保有することになるだろう。どこまで許されるのかという議論をあいまいにしてはならないという指摘である。

三つ目は日米同盟との整合性である。日米安保条約の下、米国は矛の役割、日本は盾の役割を担い、「攻撃」は米国の軍事力に依存してきた。敵基地攻撃能力の保有はこれまでの日米の役割を見直すことにつながる。一種の「歯止め」が失われて際限なく軍備拡張に向かう恐れがあるうえ、米国にも「日本の軍事大国化」への警戒感はあるだろう。これに韓国が警戒して日韓関係が緊張するのは、対中包囲網の構築を目指す米国にとって好ましいことではない。

最後は日中関係への懸念である。中国のGDPは2010年に日本を追い越し、いまや3倍に膨れ上がった。軍事費も増大している。日本が敵基地攻撃能力を保有すれば、中国を刺激し、さらなる軍拡を進める口実を与えることになろう。

田中氏が提起した4つの論点に加え、私はもうひとつの視点を示したい。人口減社会に突入し、衰退期に入った日本という国家が、周辺諸国と「軍拡競争」する体力を兼ね備えているのかという、現実的にシビアな視点である。

もちろん憲法9条の理念からしても「軍拡」は避けた方がよいと思う。ただし、現実の外交・防衛の世界は、理念・理想よりはリアリズムの視点で議論したほうが合意形成をはかりやすい。私はむしろ「日本という人口減社会が負担できる防衛費の限界」という視点で徹底討論したほうが良いと思う。

上記の一つ目の論点のように、ミサイル技術は日進月歩で「十分な敵基地攻撃能力」の確保にゴールはない。宿命的に軍拡競争に入るのは避けられないのである。相手が北朝鮮だけならまだしも、上記の最後の論点のように中国の軍拡を招くとしたら、途方もない軍拡競争に陥るリスクがある。そんなレースを続ける余力がこの国にあるとは思えない。税金はもっと違うことに使った方が賢明だ。

日本に暮らす人々の生命を守るのは国家の最も重要な役割である。だが、人々の生命を脅かしている最大のものは他国のミサイルだろうか。

私たちは巨大な震災や水害を経験した。人類史に残る原発事故も経験した。各地のインフラの老朽化は深刻さを増している。いまはパンデミックの最中だ。自殺者もコロナ禍で再び増加傾向にある。格差社会は拡大し、貧困問題は深刻さを増してきた。人々は孤独感を強めている。人々の生命を脅かすこれら「暮らし上の危機」は防衛費をどんなに膨らませても解消することはできない。

安全保障の究極の目的を「国民の生命」を守ることにあるとするならば、軍事力を中心に安全保障を考えるのは偏っている。私たちはもっとさまざまな「生命の危機」に脅かされているのだ。どの脅威を重視し、どこに優先的に「限られた税金」を投資するのか。人口減社会の限界という現実的な視点で「安全保障」を考える姿勢が政治家にもマスコミにも求められていると私は思う。

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