政治を斬る!

正義は主張しても「正義を実現するための戦争」には肩入れしない。平和憲法を持つ日本の取るべき道は「国家より個人」を重視すること

「ロシア=悪、ウクライナ=善」という善悪二元論が日本政界を席巻しています。

国会は「ウクライナと共にある」と宣言する国会決議をれいわ新選組をのぞく与野党の全会一致で採択し、国民総動員令を出してロシア軍と武器を持って最後まで戦い抜くと宣言しているゼレンスキー大統領の国会演説をスタンディングオベーションで称賛しました。

岸田内閣はロシアに対する欧米の経済制裁に加わり、日露平和条約交渉の打ち切りを宣言するプーチン政権を激しく批判。ウクライナに対する防衛装備品の支援に踏み切り、軍事的にもロシアと敵対する立場を鮮明にしました。これに対してロシア政府は日本が宣戦布告したとみなし、核兵器使用も示唆しています。日本は隣り合わせにある軍事大国のロシアを完全に敵に回しました。

日本政府は「ロシアvsウクライナ」の戦争に対して、欧米とともにウクライナ側に全面的に加担する姿勢を宣言することで、広義の「戦争当事者」に加わったといえるでしょう。もはや中立的な第三者ではなく、ロシアと軍事的に敵対する国家になったことをまずは自覚しなければなりません。

ちなみに欧米を除いて対ロシア経済制裁に加わった国は日韓などごくわずかで、中国やインドをはじめアジア、中東、アフリカ、南米など大多数の国は様子見です。欧米=国際社会とみなす日本マスコミの報道はあきらかにミスリードです。

欧米や日本の対応は、武力で一方的な現状変更を迫るロシア政府のウクライナ侵攻は「悪」であり、それに武力で徹底抗戦しているウクライナ政府を「善」と認定し、国民を総動員するゼレンスキー大統領の戦争を全面的に支持することこそ「正義」であるという政治思想に基づいています。「正義のための戦争」なのです。

一方、ロシア政府はウクライナ政府がドンバス地方でロシア系住民を虐殺してきたとし、この地域の二つの共和国の独立を承認したうえで、国際法で認められた集団的自衛権の行使を理由に軍事侵攻したという「正義」を主張しています。このような集団的自衛権の行使を「正義」に掲げるのは、欧米が各地の紛争に介入する際にも主張してきた「戦争の常套手段」です。

欧米とロシアのどちらの「正義」が正しいのかという政治的・法的論争はあるでしょう。私自身は、ウクライナ政府がドンバス地方で行ってきた行為は人道的立場から非難に値するものの、だからといって武力で一方的な現状変更を迫るロシア軍の侵攻は決して許されるものではなく、国連安保理常任理事国であるロシアが自ら武力で国際秩序を壊す行為は強く非難されるべきであると考えます。ですから、日本の政府や日本の国会が「ロシア軍のウクライナ侵攻を非難する」と宣言することにはまったく異論はありません。

しかし、ロシア軍のウクライナ侵攻を非難することと、ウクライナ政府がそれに対抗して国民を総動員して武力で徹底抗戦することを支持して軍事的に肩入れすることは、まったく別の話です。ウクライナ政府の自衛権に基づく自衛戦争を否定しているわけではありません。これは、ウクライナ政府の自衛戦争を私たち日本政府が支持するのか、さらに軍事的に加担するのかどうかという問題です。私たち自身の問題なのです。

私はロシアの軍事侵攻を非難しつつ、ロシア政府vsウクライナ政府の戦争にはどちらにも加担せず、あくまでも戦争に巻き込まれたウクライナの人々を助ける人道支援に全力を挙げ、さらにはウクライナの人々の命をひとりでも救うために一刻も早い停戦合意を実現するための外交努力に全力を尽くすのが、平和憲法を掲げる日本の役割だと考えています。どちらか一方の政府に軍事的に肩入れしたら、停戦への仲介役は果たせません。

「正義」は主張しても「正義を実現するための戦争」には肩入れしない。平和憲法を掲げる日本にとってこれがもっとも賢明な立場ではないでしょうか。

民主主義、自由、平等、資本主義…自らが信じる「正義」は主張していいのです。しかしそれを実現するために国家権力が国民を巻き込んで推し進めてきた「正義のための戦争」がいかに多くの人命を奪ってきたかという人類の苦難の歴史を真摯に見つめるべきです。

私たちは「正義」と信じ込んでいたことがあとで「正義ではなかった」と気づくことがあります。

大日本帝国は「アジアの解放」を正義に掲げてアジアを侵略しました。米国は「大量破壊兵器の使用を阻止する」といってイラク戦争を仕掛けました。のちに大量破壊兵器は存在しなかったことが判明しました。「正義」を掲げて仕掛けた戦争によって亡くなった人々の命は取り返すことができません。

だからこそ「正義」を主張しても「正義を実現するための戦争」には反対するという姿勢が大切だと思います。「正義」の実現はあくまでも非軍事的な手段で追求すべきだと思うのです。

ウクライナ戦争でいえば、戦争当事国のどちらか一方の政府に加担するのではなく、あくまでも戦争に巻き込まれたウクライナの人々に寄り添うのです。ゼレンスキー大統領とウクライナの人々を切り離して考えるのです。

戦争とは一線を画す立場に徹することで、ロシア政府から軍事的に「敵国」扱いされるリスクも減ります。戦争に加担しないことは、日本国民の生命と基本的人権を守る知恵でもあるのです。

日本国憲法の戦争放棄・平和主義は、単なる理想主義に基づくものではなく、国家権力が「正義」を掲げて始めた戦争に多くの人々が巻き込まれて命を失った第二次世界大戦の反省を踏まえ、戦争当事国から一線を画すことこそ、戦争に巻き込まれず、ひいては日本国民の生命と基本的人権を守るもっとも現実的な対応策であるというリアリズムに基づいていると私は考えています。

憲法9条は日本政府が国際紛争に武力で介入し、国民総動員令を出して国民を戦争に駆り立てることを防ぐため、つまりは戦争を遂行する国家権力から私たち国民の基本的人権を守るための条文なのです。

ゼレンスキー大統領がロシア軍と最後まで戦い抜くと宣言し、国民総動員令を出して男性の出国を禁じ、国民から「戦いたくない自由」を剥奪して戦争に駆り出すのは、大日本帝国憲法が国家総動員法に基づいて全国民に戦争を強要し、若者を赤紙で日本軍に招集して戦地に送り込み、最後は女性や子供にまで竹槍を持たせて本土決戦に備えさせた過去と重なります。どちらも「個人の基本的人権」よりも「国家の戦争」を優先しているという点において、「国家権力から国民を守るために憲法で権力者を縛る」という立憲主義の考え方に反します。

大日本帝国の敗戦を反省して生まれた日本国憲法は「国家」より「個人」を重視する姿勢を鮮明に掲げています。ゼレンスキー大統領の遂行する戦争を支持することは、日本国憲法の精神に大きく矛盾します。れいわ新選組をのぞく与野党の国会議員たちがゼレンスキー大統領に拍手喝采を送ったのは日本国憲法の平和主義に根本的に反する行為ではないでしょうか。

私は今の国会をみるにつけ、自民党も公明党も日本維新の会も立憲民主党も共産党も実は「個人より国家」を重視しているという点において変わりはないと思うようになりました。そして、「国家より個人」を重視しているのは、国会決議に唯一反対し、ゼレンスキー大統領の国会演説にもスタンディングオベーションをしなかったれいわ新選組だけではないかと思うようになりました。

れいわの山本太郎代表は「誰一人見捨てない」と訴えています。これこそ「国家より個人」を重視する政治信条を象徴する言葉でしょう。戦争への対応も、経済政策も、その本質は何かを見極めることが重要です。私は「国家より個人」を重視する政党が参院選で躍進することを期待します。善悪二元論に支配された全体主義が広がる今の日本政界をみていると、なおさらそう思います。

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