政治を斬る!

衆院選でワクチンやワクチンパスポートが議論されないのはなぜ? 若い世代の関心は極めて高いのに、野党は争点にする気がないの?

いま国民のなかで最も関心のあるテーマのひとつは新型コロナウイルスのワクチンだろう。

菅政権はワクチン接種を国策として推進してきた。岸田政権もそれを受け継ぎ、ワクチンパスポート(接種証明証)の導入を急いでいる。これに対し、疑問を抱く国民は少なくない。

接種後に死亡するケースが相次いで報告されているが、接種との因果関係はあるのだろうか。政府は死亡事例について詳細な情報を公開していないのではないか。健康被害リスクはどのくらいあるのだろうか。万が一のことがあった場合は補償されるのか。接種しない人が不利益を受けたり差別されたりする風潮が広がらないか。

重症化を防ぐ効果はどのくらい続くのか。接種しても感染する事例が続出していることをどう考えたらよいのか。変異株や今後現れるであろう新種には効果があるのか。時間が経つにつれ効果は落ちるようだが、いったいこれから何回接種を続けなければならないのか。繰り返し接種したら健康被害リスクは高まらないのか。

重症化リスクの高い高齢者への接種を奨励することは理解できるが、重症化リスクが極めて低い子どもたちに一律接種を進めて良いのか。政府は接種のメリットばかりを強調して、リスクをきちんと説明していないのではないか。

ワクチンパスポート(接種証明書)の発行を政府は予定しているが、接種しても感染したり他人に感染させたりする可能性があるのに、何を証明することになるのか。導入するとしても有効期限の設定が不可欠ではないか。

ワクチンパスポートを持つ人に限定してGOTOトラベルなどで優遇することを政府が検討しているのは接種していない人への差別ではないか。GOTOやアプリ導入に絡んで「中抜き」が繰り返されるのではないか。

ワクチンパスポートよりもPCR検査をいつでもどこでも無料で実施できるようにする方が感染拡大防止の効果は高いのに、なぜ政府はワクチンやワクチンパスポートの導入ばかり急ぐのか。単なる利権ではないか。

そもそもワクチン接種の国策に全体としてどのくらいの税金が投入されているのか。ワクチンよりも「無料のPCR検査拡充」や「病床や医療スタッフなど医療体制の整備」に優先して税金を投入すべきではないのか。「ワクチン最優先」の政策ははたして正しいのかーー。

ワクチンやワクチンパスポートへの疑問は尽きない。巨額の税金を投じる「国策」として双方を推進している政府に対して追及すべき点は山ほどある。

しかし、マスコミの大半はこれまで政府と一体となって「ワクチン推進の国策」の旗を降ってきた。ワクチンに対する人々のまっとうな疑問、懸念、不安を、「極端な反ワクチン派によるデマ・陰謀論」と一緒くたにして切り捨て、ワクチン接種の国策を監視する役割を放棄してきたのである。

マスコミが機能不全に陥るなかで、今回の衆院選は「ワクチン」を徹底議論する良い機会だ。「ワクチン」は衆院選の主要争点になると私は思っていた。

ところが、これまでのところ、「ワクチン」はまったく争点になっていない。テレビ各局や日本記者クラブの党首討論でマスコミ側が「ワクチン」をめぐる討論をほとんど設定していないのだ。そして、野党が「ワクチン」について問題提起することも、与党を追及する場面もほとんどないのである。

このままでは衆院選がどんな結果に終わっても「ワクチン接種の国策」はこのまま続行され、何のために導入するのか意味不明の「ワクチンパスポート」もあっさりと導入され、新たな差別を招くばかりか、巨額の税金が無駄に使われるのではないか。

若い世代を中心にこれほど世論の関心が高く、これほど投票率アップにつながるテーマはないのに、なぜ野党は積極的に取り上げないのか。

マスコミが政府と一体化して「ワクチン」の争点化を避けているとしても、野党が積極的にとりあげたら、争点にならざるを得ない。

いったい、野党は何をしているのか。投票率をあげるつもりがないのか。

ワクチンをめぐる論戦が乏しいなかで、ワクチンに対する立場を明確に発信しているのは、れいわ新選組の山本太郎代表である。

山本氏はテレビや日本記者クラブの党首討論では発言を許される時間そのものが他党の党首に比べて少ない。マスコミがワクチンの争点化を避けていることもあり、山本氏がワクチンについて語ることはほとんどない。

しかし、山本氏が各地で展開している街頭演説は一般の人々からの質問をフリーで受け付ける形式だ。そこではワクチンに関する質問が飛び出す。山本氏が明快に答える様子はネット動画で確認することができる。山本氏が自らの立場を実に丁寧に答えているのがわかる。

私なりに要約すると、山本氏は自らを「反ワクチン派」ではないとしている。そのうえで「接種するか、しないかは個人の判断」であり、どちらの意思も尊重されるべきで、接種しない人が不利益を被ることがあってはいけないと強調している。さらに、それぞれの人が接種するか、しないかを的確に判断できるように、メリットとリスクに関する十分な情報を政府は公表すべきであると主張している。ワクチンパスポートについては、感染を防ぐ効果が完全でない以上、導入に反対する姿勢を明確に示している。

山本氏のワクチンに対する姿勢は明快だ。私もほとんど同意見である。このような議論がテレビや日本記者クラブの党首討論で行われないことが不思議でしょうがない。これこそ、有権者が求める「衆院選で討論すべきテーマ」ではないのか。このような討論をしないからこそ、投票率が伸び悩むのではないか。

山本氏が一般の人々から質問を次々に受け付ける街頭演説で「ワクチン」の質問が相次ぐのは、他の政党やマスコミがこの問題を正面から取り上げないことに対する有権者の不信感の表れといえるだろう。

以下は、ワクチン推進派を代表する専門家であり、マスコミに頻繁に登場する感染症専門医の忽那賢志氏のツイートである。10代・20代の男性でワクチン接種後に心筋炎が起こる事例が相次いでいることに対する厚労省の指針ついて、忽那氏がYahoo!ニュースに投稿した記事を自ら紹介するものだ。

記事詳細は直接ご覧いただきたいが、忽那氏は「ファイザー社のワクチンよりもモデルナ社のワクチンの方が、心筋炎の頻度が高いことが明らかになってきました」と指摘したうえで、「厚生労働省は10代・20代の男性は1回目にモデルナを接種していたとしても2回目としてファイザー社のワクチンを接種できることとしました」と紹介し、「こうした新しい副反応の知見によって柔軟に対応を変えていくことは重要と考えられます」と述べている。

すでにモデルナの接種を終えた10代・20代の男性は「えっ!? それならファイザーを接種すればよかった。もっとはやく教えてくれればよかったのに」と思うだろう。そのとおりだ。しかし、モデルナの方がリスクが高いことはこれまでわからなかったのだから「新しい副反応の知見によって柔軟に対応を変えていく」と忽那氏は開き直っているのである。

ここが重要だ。要するにワクチンによる健康被害の実態はまだまだわからないのである。わからないと正直に認めることが科学的な態度だ。接種後に判明することはたくさんある。政府や専門家はそれを人々に丁寧に説明して「ワクチン接種の国策」を進めるべきなのだ。はたして、政府や専門家はリスクを十分に説明しているのだろうか。メリットばかり強調して「国策」を推進しているのではないか。

忽那氏はこの記事を以下のように結論づけている。

健康な人と感染者とを単純に比較はできませんが実際に新型コロナウイルスに感染したときに起こる心筋炎の頻度(日本国内の15〜39歳で100万人当たり834人)よりはずっと低く、現時点においてはどちらのワクチンも接種によるベネフィットがリスクを上回っていることから、今後も接種するご自身が「ワイはファイ卒よりもモデ卒になりたいんや!」とモデルナを希望の場合は接種可能です。若い方も引き続きワクチン接種をご検討ください。

この結論は注意して読まなくてはならない。忽那氏は「健康な人と感染者とを単純に比較はできません」と断ったうえで、接種後に心筋炎になるのは「感染した時に起こる心筋炎の頻度よりずっと低い」とし、「現時点において」は「どちらのワクチンも接種によるベネフィットがリスクを上回っている」と結論づけている。

「単純に比較できない」とか「現時点において」とか、それが間違っていた場合に備えて二重三重に責任を回避する文言をはさみながら、全体としては「若い方も引き続きワクチン接種をご検討ください」と国策推進の旗を振っているのだ。

忽那氏の主張は「エリートによる上から目線」「権力者が国民を全体的に統制する視点」であると私は思う。そもそも「公衆衛生学」という学問は、ひとりひとりの生命や健康といった「個人の利益」よりも感染拡大を防ぐという「社会全体の利益」を優先するものだ。

忽那氏の「ベネフィットがリスクを上回っている」という結論は社会全体の利益を図る立場からは正しいとしても、ひとりひとりの生命や健康を重視する立場からは正しいかどうかわからない。人間の体質は千差万別であり横一列に扱うべきものではないからだ。どんなにリスクは小さくても、その小さなリスクにぶつかった当事者はその結果として生じるかもしれない健康被害を自ら背負うしかないのだ。

国民を横一列に扱おうとする公衆衛生学に対し、現場の医療はひとりひとりの身体を丁寧に診察し、それぞれに必要な治療を個別に決めていくべきものである。

エボラ出血熱のような生命の危機に直面する脅威の感染症をのぞいて、ワクチンは本来、横一列に接種を推し進めるべきものではなく、ひとりひとりの身体に適しているかを慎重に見極めたうえで接種すべきものであると私は思う。

公衆衛生学が「医療」というよりも極めて「政治」や「統治」に近い専門分野であるのに対し、臨床医療はあくまでもひとりひとりの体質や体調を慎重に見極めながら治療を施すものである。

コロナが得体の知れない未知のウイルスであった昨年当初の時点ならまだしも、治療法がある程度見えてきた現時点では、緊急避難的に人々を一律に統制する公衆衛生学よりも、ひとりひとりを大切にする臨床医療に軸足を置いて、ワクチン接種を慎重に進めていくのが科学的立場ではなかろうか。

忽那氏の記事は「公衆衛生学」の立場からワクチン接種の国策を推進する主張の一例に過ぎない。

マスコミは本来、このような国策を監視する立場から追及しなければならない。ところが、無批判に国策推進の片棒を担いでいるのが現状である。

ひとりひとりの基本的人権や多様性を尊重する立場から「社会全体としてはワクチン接種を進めた方が好ましくても、最終的にはひとりひとりが自分自身にとってのメリットとリスクを十分に考慮して接種の有無を慎重に判断したほうがいい」「政府は接種のメリットとデメリットを丁寧に説明したうえ、接種できない人やしたくない人に不利益が生じないように徹底しなければならない」と主張するのが科学的・論理的にフェアな姿勢であると私は思う。国策としてワクチン接種を強引に推進する国家権力に対しては極めて懐疑的に接するのが、野党やマスコミの本来取るべき立場であろう。

すべての国民に深くかかわり、多くの国民が疑問や不安を感じている「ワクチン」は、衆院選の争点にとてもふさわしいテーマだ。

野党がマスコミに歩調を合わせるように「ワクチン」を争点化しないのは、いったいなぜだろう。若い世代の政治離れが加速し、投票率がいつまでも上がらない大きな理由がそこに隠されているのではないか。

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