政治を斬る!

共産党は「自衛戦争」に国民を総動員するのか?国家が戦争を遂行できないように権力者の手足を縛るのが憲法9条である!

ロシアのウクライナ侵攻を受けて、共産党の志位和夫委員長が日本国憲法9条に関連し「無抵抗主義ではなく、個別的自衛権は存在している。万が一、急迫不正の主権侵害が起こった場合には、自衛隊を含めてあらゆる手段を行使して、国民の命と日本の主権を守りぬくのが党の立場だ」と述べた(NHK参照)。

「戦争の放棄」を掲げる憲法9条を極めて重視してきた共産党が「自衛戦争」を全面的に肯定し、「自衛隊を含めてあらゆる手段を行使」して徹底抗戦する姿勢を鮮明にした発言として波紋を広げている。

祖国防衛のために「あらゆる手段を行使」することを是認する志位氏の立場からすると、祖国を守るという大義を掲げてロシアの侵攻に対抗し、国民総動員令を発令して成年男子の出国を禁じて「戦いたくない自由」を剥奪し、国内の民間人や海外からの義勇兵ら(白人至上主義を掲げる過激な極右武装勢力を含む)に武器を渡して戦闘に動員し、ウクライナの民衆の命を犠牲にしながら徹底抗戦を続けているゼレンスキー大統領は、まさに「正義の人」であり、スタンディングオベーションで称賛すべき政治指導者なのであろう。

ゼレンスキー政権が開戦後、キエフ近郊の民間人を一刻も早く脱出させることに全力をあげず、結果として多くの犠牲者を出してしまったことも、「正義」や「祖国」を守ることを目的とした戦争を遂行するためならやむを得ないということであろうか。

私は志位氏の発言に接して、仮に日本に共産党政権が誕生し、そこへロシアが侵攻してきたら、志位総理は自衛隊を投入して抗戦するばかりではなく、ゼレンスキー大統領と同じように「あらゆる手段を行使」して、つまり、「国民総動員令」のような法律を成立させ、私たち民間人の国外脱出を禁止して武器を持たせて、「祖国防衛」のために最後まで徹底抗戦することを強要するのではないかという恐怖をリアルに感じた。「正義」の中身は違えども、「一億総玉砕」を掲げて女性や子どもに竹槍を持たせて本土決戦に備えた大日本帝国の姿と重なり、恐ろしくなったのである。

そのうえで、志位氏は憲法9条を重視すると唱えつつ、実のところは日本国憲法が掲げている「戦争の放棄」や「基本的人権の尊重」よりも、共産党が掲げる「正義」の実現や「祖国」の防衛を重視しており、この政治姿勢で権力を行使すれば、現在のウクライナと同じように、戦争は長期化・泥沼化し、多くの民間人が巻き込まれて命を落とし、国土は荒れ果て、戦後の復興に気の遠くなるような歳月を要する結果を招くことになり、それでは「個人」よりも「国家」を重視する自民党とさして変わりはないと思ったのである。

私は権力者が掲げる「正義」の実現や「祖国」の防衛のために、自分の命を落としたくはないし、武器を持って他人の命を奪いたくもない。権力者が掲げる「正義」や「祖国」のために、多くの民衆が戦争に巻き込まれて犠牲になることも容認できない。

国家権力から招集令状を送りつけられ、戦争参加を拒む人々に向けられた「非国民」という同調圧力に怯え、不本意ながらも戦争に駆り出され、命を落とす人々に思いを致すと、戦争に国民を総動員するゼレンスキー政権を支持する気持ちにはなれないし、ゼレンスキー大統領をスタンディングオベーションで称賛する政党や政治家を支持する気にもなれない。

そして、国家権力が「正義」や「祖国」を掲げて戦争を遂行し国民の命を犠牲にすることを防ぐために権力者の手足を縛っているのが日本国憲法9条だと私は思っている。国家が自衛権を持つことと、国民を自衛戦争に総動員することは別である。日本国憲法が国家による自衛権の発動を禁じていないとしても、それは必要最小限の範囲にとどまり、徴兵制などで国民に戦闘を強要することなど「あらゆる手段を行使」することまで容認しているとは私には思えない(「あらゆる手段」を認めるのなら、安倍晋三氏が主張する「敵基地攻撃能力」も含まれてしまうではないか)。

志位氏にとっての憲法9条はそのようなものではなかったようだ。もし、私の認識が違っているとしたら、少なくとも「あらゆる手段を行使」の部分は発言を撤回し、徴兵制などで国民に戦闘を強要することは絶対にないと宣言すべきである。

共産党という組織がトップの誤りを認めることは容易ではなかろうが、幅広い国民に受け入れられる政党へ脱皮するには避けては通れない道だ。

きょうは志位氏の発言の意味を深く理解するためにも「自衛戦争」について考察してみたい。

人類の歩みは戦争の歴史でもある。

異教徒を改宗させるため、異民族の侵入を防ぐため、過去に奪われた領土を取り戻すため、独裁者の圧政から民衆を解き放つため、敵国の先制攻撃に報復するため、他国への侵略を許さないため…人類はさまざまな「正義」(大義)を掲げて戦争を遂行してきた。

その結果は悲惨だった。報復は報復を呼び、戦闘はエスカレートし、殺戮が繰り返され、国土は焦土と化し、憎悪が世代を超えて蓄積され、何も良いことはなかったのである。

人類は反省した。

そこで「戦争=悪」と定義し、国際法によって原則禁止としたのである。そのうえで、やむをえず戦争をする場合の厳格なルールを定めたのだった。

そのルールは、国連安全保障理事会の承認(決議)を得ることである。国際社会(国連)から「戦争に訴えるのはやむを得ない」という「お墨付き」を得た場合に限って「戦争は違法ではない」とする例外をつくったのだ。安保理決議を経て「国連軍」を創設し、国連が自ら武力による解決を主導するルールもつくったのである(国連が主導する安全保障体制を「集団安全保障」という)。

国連は、第二次世界大戦の戦勝国である米国、英国、フランス、ロシア、中国の5大国を「国際社会のリーダー」と認定して国連安保理の常任理事国とし、5大国に「拒否権」を付与し、このうち一カ国でも反対すると決議することができないというルールをつくった。5大国に「特権」を与える代わりに国際秩序を維持するため結束するように促したのだ。

これは5大国が軍事的に対立して第三次世界大戦に発展することを防ぐ目的がある半面、5大国の利害が一致しない限り国連安保理は機能しないことになった。

これではある国家が「違法な戦争」を仕掛けた場合、5大国のうち1カ国でも反対すれば「違法な戦争」に対抗することができない。一方的に侵略された国はただ降伏するしかないことになる。

国際法はこのような不条理を解消するため、国連による集団安全保障が機能するまでの間、国家が自らを守るために応戦する「個別的自衛権」と、同盟国が攻撃された時に他の同盟国が応戦する「集団的自衛権」を、必要かつ相当な限度で行使する「自衛戦争」を例外的に認めたのである。

現代世界において国際法に違反しない戦争は、①国連決議を踏まえた集団安全保障に基づく戦争、②個別的自衛権を行使した戦争、③集団的自衛権を行使した戦争ーーの3つである。

では、今世紀の大きな戦争はどうだったか、振り返ってみよう。

まずは2001年のアフガニスタン戦争。米国は同年9月11日にニューヨークやワシントンが標的となった反米テロ組織アルカイダによる同時多発テロを受け、アフガニスタンのタリバン政権がアルカイダを庇護していると主張して「テロとの戦い」を宣言。自国の「個別的自衛権」の行使にあわせ、英国やフランスなどの同盟国とともに「集団的自衛権」の行使を法的根拠としてアフガニスタンへの攻撃を開始した。

当初から「私的集団によるテロに反撃するため、国家が自衛権を発動して戦争を遂行することは、必要かつ相当な反撃を超える自衛権の濫用ではないか」という重大な国際法上の疑念が指摘されたが、米国は戦争を続行。数えきれないほどの民間人が戦争に巻き込まれて犠牲になったうえ、アフガン国内は海外からの義勇兵や武器が溢れ返り、諸勢力による内戦が延々と続き、国土は荒れ果てたのだ。開戦から20年たった昨年、米軍は混乱のつづくアフガンを見捨てて撤退したのは記憶に新しいところである(何と身勝手な国家であることか!)。

次に、米国を中心とする多国籍軍がイラクを攻撃した2003年のイラク戦争。米国はイラクが大量破壊兵器を所持しているなどとして武力攻撃を認める安保理決議を採択しようとしたが、フランスをはじめ反対論が強く、安保理決議なしで攻撃に踏み切った。イラクが過去の安保理決議に従っていないことや国際法上根拠が乏しい「先制的自衛権」の行使を法的根拠にあげたが、開戦当初から世界中で国際法に反しているのではないかという疑問が噴出した。

結局、多国籍軍圧勝でフセイン政権が倒れた後も大量破壊兵器は発見されず、米国が掲げた「戦争の大義」への疑念はますます膨れ上がった。イラクでは大量の民間人が犠牲となったうえ、内戦が延々と続いて泥沼化し国土は焦土と化したのだが、米国の「戦争責任」は今もあいまいなままだ。

米国が遂行した二つの戦争で、米国が当初掲げた「正義」に熱狂した人々は少なくない。それらの「正義」は欧米メディアのプロパガンダで世界中に拡散した。しかし、現在から見ると、どちらの戦争の「正義」も極めていかがわしいものになった。

人間が信じる「正義」など、所詮はその程度のものなのだ。「正義を掲げた戦争」ほど怪しいものはない。その「正義」に基づく戦争に巻き込まれて犠牲になった人々の命は戻ってこない。

国連や国際法は超大国・米国の身勝手な振る舞いの前に極めて無力である。どんなに民主主義や自由や国際秩序などという「正義」を掲げようとも、結局は米国の「力の横暴」を食い止めることができなかったのである。常に「強い者ばかりが得をする」かたちでルールが歪められてきたのが、国際政治の理不尽な現実だ。

では、今回のロシアのウクライナ侵攻はどうか。

ウクライナは2014年の騒乱(米国が水面下で介入した疑いが濃厚)で親露政権が倒れ、親米政権が誕生した後、ロシア系住民の多い東部ドンバス地域で内戦が続いた。ウクライナ政府は米国から軍事支援を受けながら、白人至上主義を掲げる極右武装勢力(ネオナチ)に武器を与え、ドンバスでの内戦を遂行。この極右武装勢力によるロシア系住民への虐殺などの蛮行に対し、NGOや欧米メディアは繰り返し警鐘を鳴らしてきたのである。

こうした中、ドンバス地域の二つの共和国は独立を宣言。ロシアは二つの共和国の独立を承認したうえで、ウクライナ政府の武力行使から両国を守るという「集団的自衛権」の行使を法的根拠としてウクライナへの軍事侵攻に踏み切ったのである。

問題はロシア軍の侵攻が集団的自衛権の行使の条件となる「必要かつ相当な限度」といえるのかどうかである。限度を超えるのなら「集団的自衛権の濫用」として国際法違反となる。

私は、①ロシアが二つの共和国の独立を承認してただちにウクライナに侵攻したこと、②ロシアは国連常任理事国として国際秩序を率先して遵守する立場にあることーーにかんがみ、今回のウクライナ侵攻は「集団的自衛権の濫用」にあたる可能性が高く、少なくとも政治的には暴挙だと判断している。しかし、ロシアの反論をしっかり聞いたうえで、事実関係を徹底して検証したうえ、国際法の解釈を十分に検討しない限り、「国際法違反」と断定するのは簡単ではないとも思う。

まして過去に米国がアフガンとイラクで仕掛けた戦争と比べて、今回のロシアの侵攻が突出して国際法違反にあたるとは思えない(むしろ過去の米国の戦争のほうが国際法違反の疑いが濃厚だ)。米国が過去の戦争責任を放置してロシアを一方的に批判するのは説得力に欠ける。これが欧米を除く世界の大多数の国に「ロシア制裁」への支持が広がらないゆえんであろう。

「ロシア追放」に賛成したのは国連加盟国の48%!台頭する第三世界は「欧米=国際社会」へ静かに抵抗している

もちろん、国際法上の論争に決着がつくまで戦争状態を放置するわけにはいかず、戦争に巻き込まれるウクライナの人々の命を守るため、政治的にただちに対応することが必要なのは事実だ。だがそれは「ロシア=悪」「ウクライナ=正義」という善悪二元論に基づいてウクライナ政府に全面的に加担することではなく、「戦争=悪」「戦争は原則禁止」という国際法の大原則にのっとり、戦争当事国の双方に即時停戦を迫る外交努力を重ねることを優先すべきであろう。

軍事侵攻してきた他国に「自衛戦争」で応じれば、国際法上は戦争当事者となる。民間人を自衛戦争に動員すれば、戦闘員とみなされる。民間人が武器を持って応戦していたら、命を失っても「民間人虐殺」とは言えない。だからこそ、民間人を戦闘に駆り出してはいけないのだ。

いったん始まってしまった戦争を国際法的に白黒つけるのは時間がかかる。国際法とはそのようなものなのだ。だからこそ法的論争はさておき、即時停戦に全力をあげる国際政治・外交努力が何よりも優先されるべきなのだ。

いま、即時停戦に最も後ろ向きなのは米国のバイデン政権であろう。バイデンはウクライナの人々の命を守る即時停戦よりも、ウクライナの人々に武器を渡して盾とし、戦争を長引かせてロシアへの経済制裁を強化することで、プーチン体制を転覆させることを優先しているようにみえる。国民を総動員して戦争を続行するゼレンスキー政権は米国の国益に利用されている。それがウクライナの「自衛戦争」の実態であろう。

共産党に話を戻そう。

「個人」より「国家」を優先した大日本帝国憲法のあり方が日本国民に多大な犠牲を強いた先の大戦を招いたという歴史認識に基づき、「国家」より「個人」を重視する日本国憲法は誕生した。憲法9条は、国家権力が日本国民を戦争に動員することを避けるために国家による戦争を放棄し、権力者が戦争を遂行できないように手足を縛った規定である。

私はそのような憲法観を共産党が持っていると信じていたが、どうやら違ったようだ。志位氏は国家が掲げる「正義」や「祖国」を守るためには、「あらゆる手段を行使」して自衛戦争を遂行すると宣言したのである。「あらゆる手段」というのだから、ゼレンスキー大統領のように、国民総動員令を出して国民に武器を持たせて戦うことを強要することも当然に含まれるのだろう。「正義」や「祖国」を守るためなら憲法9条を変えることも選択肢に入ってくるのではないか。

世界各地の共産主義は暴力革命を目指して闘争してきた。日本共産党はそれと決別し、武力行使に強く反対し、まして国民を武力闘争に巻き込むことには断固反対し、武力以外の紛争解決を徹底追求する政党に生まれ変わったと私は信じていた。どうやら違ったようである。だからこそゼレンスキー大統領を称賛できるのだ。

弱い立場にある人々の暮らしに根ざした共産党の地道な活動にシンパシーを抱いていた国民の中には、私と同様、ウクライナ戦争をめぐる志位共産党の対応に衝撃を受けた人は少なくないのではなかろうか。

志位氏はあらゆる手段を行使して「正義」を追求する共産主義の原点に立ち戻ったようにみえる。党委員長就任から22年。長期支配が続いて時代の変化に追いつけなくなってきたのかもしれない。

次に続く世代、田村智子政策委員長、山添拓参院議員(今夏の参院選東京選挙区出馬予定)、吉良よし子参院議員、辰巳孝太郎前参院議員(今夏の参院選大阪選挙区出馬予定)らは、志位氏の見解を黙って受け入れるのか。共産党が幅広い国民に開かれた政党として真の意味で脱皮するには、今こそ次世代の政治家が声を上げる時ではないか。奮起を促したい。

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