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こちらアイスランド(111)40年前の自分と再会した「湯川れい子 87歳のバースデーコンサート」〜小倉悠加

この感覚を動揺というのだろうか。それとも「人生が変わった」ってやつか。2023年1月19日、実際の誕生日2日前に行われた「湯川れい子 87歳のバースデーコンサート」は、私自身の思い出や体験とも深く重なり、心の奥に埋没していた何かが呼び起こされた。

という訳で今日は思い出話しかできそうにない。

湯川家に出入りし始めたのは1979年のことだ。アメリカの高校を卒業した時の記念指輪(クラスリング)に年号が刻印されているので間違いない。高校一年間の留学で、どれだけ英語が話せるようになったかは、自分でも覚えていないが、日常に困ることがない程度にはこなせていたことだろう。

日本の高校に戻った時、「アメリカン・トップ40」のいちリスナーでしかなかった私に、湯川さんは「アシスタントにならないか」と声をかけてくれた。アシスタントの中身は、日々レコード会社から届く見本盤の整理と、ラジオ番組等で使う洋楽アーティストの資料翻訳、その他の細々とした雑用だ。

高校生洋楽ファン夢のアルバイトだ。小躍りして喜んだ。心の中でガッツポーズだ。

彼女は自宅に書斎を持ち、四谷の若葉という地名の響きも素敵な場所にあった。都会のど真ん中でありながら、四季の移り変わりを周囲の自然で感ることのできる、赤煉瓦の瀟洒な家だった。

その家に9月から週一で通うことになった当時の私は、米国の高校を卒業して日本の高校に戻ったばかりだった。70年代のあの頃、アメリカの高校留学は日本の高校を留年する必要があった。日本で3年間、アメリカで1年間の高校生活をおくり、日米両方の高校を卒業したのだ。

平日に1日だけどうしても湯川家に通いたい。腹痛だの頭痛だの歯医者だのと、週に一度必ず何らかの理由をつけて学校を休んだ。高校3年といえば大学受験の年でもある。「XXの模擬試験を受けに行く」でも大手を振れる理由になり便利だった。

高校を休む時は親から学校へ電話を入れたり、連絡帳に書いたりと、当然のハードルはあった。そこらへんは大の洋楽ファンだった母親が応援してくれた。恐る恐る学校を休みたいと切り出した私に、「学校よりも湯川さんの方が大切でしょ」というきっぱりと言い放った母は偉大だ。

進んだ大学は上智大学だった。四谷の湯川邸と上智(市ヶ谷キャンパス)はご近所の範囲で、大学時代は授業の後、徒歩で通った。仕事といってもアルバイトだし、アルバイトといっても正式な雇用契約を結ぶようなものではなく、言葉の契りで実際は娘のように可愛がってもらった。身分は「子分」なので、れい子先生は「親分」ないし「姉御」になるのだろうか。

アルバイト中に、確かハワイに2度、北海道の別荘にも2-3度、その他、鞄持ちと称して結構あちこちへ連れて行ってもらった。

「87歳のバースデーコンサート」の大半は、まさに私が湯川家に中の人として関わっていた時代の話だった。大学卒業後、私はレコード会社に入社した。部署は洋楽に配置されたので、当然のように私は湯川番になった。レコード会社は身体を壊して長くは続かなかったが、90年代初頭まではちょこちょこ湯川家に顔を出していたので、それなりに動きは知っていた。

コンサートで披露されたエピソードには、全く忘れていたことも多かった。裏を返せば当時聞いた話のオンパレードだった。

各アーティストのデビュー当時の話を聞きながら、私は四谷の、若葉の、あの家の間取りをありありと思い出した。玄関を入ると右手奥にぶら下がり棒がしつらえられた階段があり、階段の下がトイレだった。玄関の奥というか真正面にはエルビスとの写真があり、下の戸棚には写真集などが入っていた。玄関を入ってすぐ左手のドアはキッチン直結で、お客様はまず正面の飾り棚のエルビスと対面してから通路に入り、通路左手のドアからリビングへ入って頂くようになっていた。

リビングには棚の中に大きなテレビが隠されていた。タムラッチ(当時の夫である田村氏の愛称)が帰ると大きな皮の椅子にドスっと腰を下ろし、テレビをつけるのが常だった。

大きな窓のリビングからは清々とした庭が見え、もっぱら関係者との打ち合わせはそこにあるダイニング・テーブルで行われた。もう少し込み入った話の時は、崖側に面した一番奥の部屋を使っていた覚えがある。

れい子先生の書斎はリビングにつながっている部屋で、それほど広くはなかった。顔を上げれば外が見える位置に机があり、右手にレコードが聴けるオーディオ一式、左手奥には本棚があった。レコード室は、書斎から通路へ出たところの階段を降りたところにあり、傾斜地にあった半地下で湿気が多かった。

懐かしい。

コンサートで披露されたエピソードの中で、とびきり感慨深い場面がふたつあった。そのひとつは、クミコさんが新曲として披露した曲だ。タイトルは「まさか愛していたなんて〜戦友〜」というもので、れい子先生が田村氏を去年失った際、号泣しながら書いた作品であるという。クミコさんの新曲として既に送られてきていたメロディに、田村氏の死後歌詞をつけたものだ。

私は去年、久々に彼女と会った。数十年ぶりに初めて腰を落ち着けて話をした。時代は流れたが、ツーカーで理解できる話はたくさんある。振り返ってみれば、ごく個人的な付き合いだったので、彼女も話しやすかったのだろう。田村さんのことも話題になった。

もしかしたら田村さんの話題を通して、意気投合を新たにしたのかもしれない。というのも、現在私が滞在しているのは、離婚した夫と共同で持っている家だ。元夫がこの家に住んでいるし、私の洋服や持ち物、書斎の道具等も手付かずにある。帰ってくればそのまま暮らせる。

え、でも離婚したんでしょ?まぁそうなんですがぁ。

かいつまめば、まずは必要あってペーパー離婚をした。本当に離婚したいと思った時には、既に手続きは10年前に済んでいた。結婚が紙一枚にすぎないことは、ペーパー離婚をした時に痛感した。婚姻関係であることの法的な利益もあるけれど、最後は「気持ち」でしかない。絶対に。

喧嘩別れしたわけではない。さすがに私がアイスランドへ飛んで行ってしまった直後はギクシャクしたが、お互いに適度な距離をもって接することができるのか、今や会えば何でも話せるいい友達状態になっている。

私たちには息子がいる。この家はこのまま持ち続ければ息子へ渡る。私もひとりっこで両親の自宅がある。ちなみに元夫もひとりっこで、彼にはまた別の家がある。誰がどちらに転んでも住むところには困らない。この家は元夫が住んでいて何ら問題はない。それどころか、私が日本に帰国してすぐに勝手知ったるところで滞在できて便利なのだ。

去年湯川さんは、いかに田村さんとは「戦友」として仲良くしているかを、事細かに教えてくれた。あの「タムラッチ」がほどよく老いて丸くなったというのだ。

「へ〜、切れすぎて怖い包丁みたいに切れてたあの田村さんが、丸くねぇ〜」

彼女は私がどの時期の田村さんを体験したかを知っている。だからこの場合の「あの」は、二人が共有できる「あの」なのだ。今年もれい子先生は田村さんの話をしてくれた。またまた仰天びっくりの裏話もあり、それはきっと彼女自身が披露していくことと思う。

田村氏の話をする言葉のニュアンスから、思いの深さが伝わってきた。それがクミコさんの新曲の歌詞となって現れた。号泣するしかなかった。これは私が下手な描写をするよりも、みなさんぜひクミコさんの新曲「まさか愛していたなんて〜戦友〜」をお聴きください。

次なる感慨深い思い出は、デビュー前のシャネルズだ。このグループは後にラッツ&スターとなり、現在はラッツ&スターの主要メンバーがゴスペラッツに加わっている。

シャネルズが初めて湯川邸に訪れた時、私はその場に居合わせた。あれは寒い冬の日だったーー実はこれ、私の中では面白い話として君臨しているけれど、一度れい子先生に話したところ、そんなこと公表したらかわいそうじゃないというようなことを言われた。なので話すのを控えている。けど、40年以上も前のことだし、本人も笑うだけだと思うんだけどなぁ。

メンバーが旋盤工を現役でやっている時代で、”来月辞める予定だが生活が不安”というような話をしていたことを、このコンサートを見ながら思い出した。

そしてあの「ランナウェイ」の大ヒット。作曲家の故井上大輔さんとお目にかかったのは、シャネルズとしてのデビュー後の初ライブだった。ブルー・コメッツは小学生の時に大好きだった。グループサウンズから躍り出た井上さんは作曲家として売れっ子になり、その上奥様のことでも忙しく、本当に大変な生活を送っていたようだった。もちろん表向きには売れっ子作曲家で忙しいということになっていた。私は単純に会えて嬉しくて、サインを頂いた。

あれもこれもと懐かしい人々、懐かしい曲を聴くにつれ、私は当時にタイムスリップした。学生だった頃の自分を思い出し、当時の街の雑踏や人々の息遣いが鮮明に蘇えり、まるでホールに到着する直前、その場所から抜け出してきたばかりかのような気さえした。

40年以上も前のことだ。さすがに60代の私は20代の私ではない。けれどどこかに、当時と全く変わらない心持ちの自分を感じたのだった。今の自分を忘れて、40年前に完全にタイムスリップしてしまった。放心状態だった。

私はたまたま湯川さんのアシスタントを務めていたため、そういう感想になった。いらっしゃったお客様もきっとそれぞれの思い出と時代感を追体験したことだろう。終演後、周囲から異口同音に「本当に来てよかった」「信じられないほど豪華なコンサートだった」という喜びの声を多く聞いた。

コンサートの数日後、古い写真を整理していると、写真のネガが入っている箱から、留学時代に送られてきたれい子先生からの手紙が保存されていた。既に今回は長くなってしまったので、この手紙のことはまた別の機会にでも。

小倉悠加(おぐらゆうか):東京生まれ。上智大学外国語学部卒。メディアコーディネーター、コラムニスト、翻訳家、ツアー企画ガイド等をしている。独自企画のアイスランドツアーを10年以上催行。当地の音楽シーン、自然環境、性差別が少ないことに魅了され、子育て後に拠点を移す。好きなのは旅行、食べ歩き、編み物。

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