政治を斬る!

こちらアイスランド(161)一時帰国中の天国と地獄。大根おろしが毎日食べられる幸せと、美容整形や二重を迫る広告という名の病巣〜小倉悠加

かれこれ一ヶ月近く日本にいるけれど、まだフワフワしている。時差には慣れたし、特に寝不足でもないのに、どうもフワフワ感が抜けない。

勝手知ったる日本なのに、外国に居るような不思議な違和感を感じ続けている。普通の生活空間なのに、身近な感じがしない。母国なのに、異質な世界に入ってしまった感覚が抜けない。

去年はどうだったかと考えてみる。大学のオンライン授業で週の大半で家族と夕食を共にできず、まして外出して人とご飯を食べる時間もなく、日々宿題にも追われた。滞在した実感が薄く、時間の制約でひどくフラストレーションが蓄積していた。なので比べることはできない。

「普通」が何を指すのか分からないが、コロナ前の日本を「普通」と呼ぶなら、普通に近い日本に滞在するのはーーー5年ぶりになる。

そうか、どうりで長い間離れていたような違和感が拭えない訳だ。実際、「普通」の日本は5年ぶりなのだから。

毎回のことながら、やっぱり日本が最高!と思うこともあれば、違和感しかない物事もある。

やっぱり日本が最高!は、間違いなく食文化だ。あれもこれも食べたいものが山積みだし、振り向けばそこには美味しそうなものが必ずある。以前は「安い!」と歓喜したけれど、現在はそこそこの値段になってきた。日本での「安い=正当な価格」ではなく、どこかで皺寄せがあることを知っているので、心が痛む。値上げが賃金の値上げと連動していることを願いたいけれど、実際は材料費の値上げ分のみなのかな?とも。

私の食指が動くのは、豪華な食事ではない。母の顔を見て、一番最初に食べたいと言ったのは大根おろしだった。近所のスーパーの特売シラスを加えれば、超絶の絶品になった。続いて納豆、きんぴらごぼう、野菜の煮物、佃煮、魚の干物、たらこなどの魚卵等を所望した。日本の家庭であれば、常備菜のようなものが一番のご馳走だ。

もちろんそこには基本中の基本の白米がなくてはならない。見るからにツヤツヤで、ほんのりと甘く、白米がこれほど神々しい存在だったとは!艶やかな白い粒を口に含むと「久々だね〜、戻って来れてよかったね〜」と、優しい会話をしていた。誰と誰の会話かはわからない。ノリで書いただけだから(笑)。

日本の米はな〜んて美味しいんでしょ!野菜も調理法も最高!!農業を営んでいる方々に心から感謝をしたい。

なにを食べても「おいしい!最高!これが食べたかった!うーん美味い!」を連発する私を見て、母は半ばキョトンとした。「そんなのでいいんだ。そんなに美味しいんだ。毎日食べてるから当たり前で、その有り難さがわからないわ」と。

アイスランドの食事は基本的には美味しい。特に旅行者としてレストランやカフェで食べる場合は、何でもそこそこ美味しいく食べられる。レストランであれば尚更レベルのいい味になる。というのも、素材はいいからだ。どう転んでも不味くはならない。

究極の調理法(?)は白身魚とじゃがいもを茹でこぼしただけの一品。アイスランドの家庭では定番の料理だ。料理といっても茹でるだけ。そこにバターを落として食べる。フォークで崩して魚とじゃがいもをバターと混ぜてもいい。日本の塩焼きに位置する一品とも言える。魚は新鮮で良質なので、バターも普通に美味しいので、シンプルで素直に美味しい。

日本の野菜は不味くなったと嘆く人もいるが、種類が多いだけでも素晴らしい。四季の移り変わりが生鮮食料品にありありと反映される日本の食事を基準に考えると、アイスランドの野菜は実に物足りない。国内での温室栽培で種類は増えたとはいえ、大半はヨーロッパからの輸入に頼っているからだ。そこには輸送の問題も大きく関わり、季節感を求めるには無理がある。

じゃがいもといえば、野菜が食べたいと言ったのにじゃがいもが出てきたという話を以前に書いた。日本人の「野菜が食べたい」はさっぱりとした葉物や一部の根菜のことで、澱粉分の多い根菜は野菜だけど野菜ではない!(外国人には複雑すぎるコンセプトか?)

母とごく日常の質素な食事を何日間か楽しんだ後、今はコンビニやスーパーの惣菜を楽しんでいる。美味しい菓子パンも!

日本に帰国して少なからずギョッとするのは、みなが同じ行動をとること、とろうとすることだ。ここには整列乗車を筆頭に、秩序だって物事を行える国民性は大好きだ。もちろん私も素直に従う。

けれど、「同調圧力」という言葉に代表される、本来は自由選択の物事が、周囲の圧力により従わされる「空気」はいただけない。

あれは成田空港に降り立ち、そこから乗車した電車の中だった。スーツケースを車内に運び込み、座席に座って一息する間も無く、目にとまったのが整形手術の車内広告だった。なんでも目の周囲に糸を入れて二重にしろという強制感が匂ってきた。気持ちが悪くて吐きそうな違和感を覚えた。

ありのままの自分のどこがいけないのか?目はものがよく見えればいいのだ。まぶたが一重だろうと二重だろうと、放っておいてくれ。奇形で手術が必要であれば、それは別の話だ。普通に見えているのに、目の周りのデリケートな部分に、針だか糸だか知らないが、そんなものを埋め込むのは不必要な処置は不必要なリスクでしかない。

美容整形をするもしないも本人の自由で構わない。ただし、「そのままのあなたではダメだ」と解釈できるような広告は排除すべきだ。整形外科を宣伝したいのであれば、昭和の時代のように、病院の宣伝をすればいい。鼻を高くしろとか、目を持ち上げろという具体的な指示は広告から受けるものではない。

アイスランドのレンタカーは地元の会社から

ふと目を逸らすと、次に目に入ったのは「病気になるのが怖いだろう」調の脅しだった。病名は忘れたが、やれ薬剤を飲め、検査をしろだった。

私は一生ガンにならない。決定済みだ。健康診断に行かなければガン診断はされない。いいのよ、もう60年以上楽しく生きたし、ガンとやらになるのであれば、そこそこ付き合って生きて、普通に死ぬから。苦痛が伴うのであれば、緩和ケアのみお願いしたいけど、切った貼ったは御免被る。

広告費を使ってまで宣伝したいほどそうなってほしい病気なんだ・・・と、あまのじゃくの私は考える。

いかに症状が苦痛であるかが書いてある、病気になると周囲に迷惑がかかると陰に書いてある。事前予防が大切という。早期発見を勧めてもいる。そういう広告を見ること自体が気持ちよくない(免疫が落ちる)。人に恐れを植え付ける。この広告が一番の害に見えるのだ。

手遅れよりも早期発見の方が本当にいいのか?私には体験がないので分からない。私なら初期発見でがん治療のループに陥るよりも、知らないまま手遅れで普通に暮らしていたい。

化粧品の宣伝しかり、ダイエットの宣伝しかりで、なぜ日本人はそれほど自分の何かが欠落していると思い込まされるのか?雑誌のモデルそっくりになれる訳ないじゃん。だって別の人間なんだもん。

そんな広告ばかりが目についてげんなりした。見えない圧力を言葉でかけられているようで、非常に気持ちが悪かった。毎日見ていれば何でもない車内広告も、久々に見ると違和感しかなかった。確か去年もそれは思ったかな。

車内広告の「健康のため」という大義名分は眉唾だ。本当に健康のためであれば、検査や薬ではなく日々の暮らしの基本が本来語られるべき物事だろう。しかしそれでは儲からない。

たかが広告だけど、そういった小さな積み重ねが無用な恐怖心を煽っていないか?楽しく暮らしている自分は自分だからと思っていたのが、もしや自分の容姿はこのままではいけないのかと間違った思いを抱かないか(私は少し思ったぞ)。たかが広告、されど広告だ。

情報や知識は大切だが、間違った方向での発信は毒でしかない。表面的には有益そうでも、紙一重のところでドロドロとした思惑が渦巻いているようで、日常的に目に入れたくない。通勤通学をしていなくてよかった。

日本の社会は不要な呪縛を迫る広告ばかりで気が滅入ってくる。広告こそが社会の病巣ではないのか。

小倉悠加(おぐらゆうか):東京生まれ。上智大学外国語学部卒。メディアコーディネーター、コラムニスト、翻訳家、ツアー企画ガイド等をしている。独自企画のアイスランドツアーを10年以上催行。当地の音楽シーン、自然環境、性差別が少ないことに魅了され、子育て後に拠点を移す。好きなのは旅行、食べ歩き、編み物。

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