※本稿は筆者同盟に参画しているハンドルネーム「ゆっくり考える」さんが執筆したものです。
安倍元首相暗殺事件との関連であきらかになった旧統一教会(以下、煩雑ですので「旧」を外します)の問題について、前回と同様、ジェンダー論的な視点を入れた場合にみえる風景を書き留めておきたいと思います。
その前に二点、申し添えておきたいことがあります。第一に、このようにジェンダー論的な視点から文章を書かせて頂いておりますが、フェミニズムやジェンダーは私の本来の専門ではないということです。しかし、日頃つたないなりに自分の頭で考えてきたことや漠然と感じている違和感を整理する上で、フェミニズム的・ジェンダー論的議論はとても役に立つと感じています。そのような立場から、この原稿を書いていきたいと思います。
第二に、ジェンダー論の政治的意義についてです。サメタイの男性読者の方々の中にも、ジェンダーという文字をみるや「女性の悩みを扱う学問かな」という印象を受け、「大して重要な話ではなさそう」と感じる方も少なくないかもしれません。しかしジェンダー論は、「女性の悩み」だけを論じる議論ではなく(もちろん女性の悩みは真剣に受け止めてほしいですが)、独裁政治と民主主義をめぐる議論に深く切り込む視点を与えてくれる議論です。
私の現時点での理解ですが、ジェンダー論における家父長制/パトリア―キー(イエよりもパトリアーク、つまり「父」として振る舞う男性指導者という要素を強調したいので、これ以降はパトリア―キーとカタカナ表記にします)をめぐる議論は、サル学的視点と組み合わせると、その重大な政治性がより伝わりやすくなるのではないかと期待します。パトリア―キーとは、言ってみれば一匹の「オスのボス猿」が頂点に君臨する独裁的な「群れの秩序」のことです。そのような秩序が現代社会の至る所に存在していることを、ジェンダー論は「オス猿の群れ」(男性社会)の「外部」(女性や性的マイノリティの視点)から解き明かします。その上で、社会の成員が「ボス猿」にとっての「資源」としてではなく、「一人の人格ある人間」として大切にされうるような秩序や制度の可能性を、より根本的なレベルから考察していく。そのような側面がジェンダー論にはあると思います。
さて、7月22日のBS-TBS報道番組「報道1930」が、統一教会の対日観や自民党との関係を報道し、話題になりました。
番組では統一教会の『天聖経』にある記述が紹介されており、それによると、朝鮮半島は男性の生殖器、島国である日本は女性の陰部にあたり、「エバ国家」である日本は「すべての物資を収拾(ママ。「収集」の誤記と思われます)して本然の夫であるアダム国家韓国に捧げ」ることを運命づけられている、と説かれているそうです。番組では、この奇妙な神話の背後に、かつて日本が韓国を植民地化したことへの恨みがあるという点がフォーカスされていました。しかしここでは、この神話的メタファー自体が、女性を強烈に蔑視・奴隷視し「資源」扱いするものである点に注目しておきたいと思います。
「エバ国家」(罪深き女性国家?)は収奪対象であると主張した文鮮明氏について、山上容疑者は、安倍元首相殺害前にジャーナリストの米本和広氏に送った手紙の中で、「世界中の金と女は本来全て自分のものだと疑わず、その現実化に手段も結果も問わない自称現人神」だと分析していました(山上容疑者の手紙については、ひとまず青木正雄氏がツイートした18日付『中日新聞』掲載のもののURLを貼っておきます)。
統一教会によって「資源」扱いをされた女性の証言も、ネットでみることができます。7月12日の全国霊感商法対策弁護士連絡会の記者会見(※会見内容を正確に知ることのできる動画ですが、画面上に流れる視聴者のコメントに一部差別表現がありますのでご注意ください)で証言をおこなった、山上容疑者と同じく統一教会の「宗教2世」である女性「A」さんの体験談です(動画45:00あたりから)。
「A」さんは1995年に、統一教会の合同結婚式を通じて韓国の無職の男性を伴侶にあてがわれたということですが、その際、どんな相手であっても結婚を断ってはいけないと事前に神に誓わされたといいます。夫からDVを受け、教団に相談しても、「あなたの信仰が足りないからだ」とされ、「彼が悪いとは一言も言われることはありませんでした」。また「その当時の統一教会は避妊をしてはいけないと言われていた」とのことです。してみると、統一教会の合同結婚式には、社会的条件に恵まれず結婚の難しい教団内の韓国人男性に、日本人女性を「分配」する意味合いもあったのだろうか、という気がしてきます。また避妊を禁じられていたというくだりからは、女性を無力化・奴隷化し、その妊娠・出産能力を含めたすべての「資源」を男性がコントロールすることが、宗教的教義のもとに正当化されていたこともわかります。
しかし統一教会によって「資源」扱いを受けていたのは、女性にとどまりませんでした。同じく統一教会の「宗教2世」である「高橋みゆき」さんは、以下のように訴えています。
「多くの新興宗教の子供(以降「宗教2世」と呼ぶ)は、「自身が信仰を望まない場合でも宗教組織から脱会できない」という問題を抱えています。これは、宗教組織が存続するために、資金源・労働力となる信者が抜け出せない様な『歪んだ教義』を作り上げている事が大きな原因です。宗教組織が、更なる信者確保のために真っ先に狙うのは信者の子供です。信仰宗教が信者の子供を狙うのは”常套手段”なのです」(change.orgでの署名活動「【統一教会・人権侵害】信教の自由を奪われた子供達。虐待防止のための法律制定を求めます。#宗教2世に信教の自由を」より)
つまり、子どももまた、組織を維持する上での資金源・労働力だということです。
前回も引用しました上野千鶴子『家父長制と資本制』は、パトリア―キーの特徴を、年長男性による性支配(女性に対する支配)と世代間支配(若者の支配)であると書いています。山上容疑者、「A」さん、「高橋みゆき」さんの語る内容からは、統一教会がいかに強烈なパトリア―キー強化型宗教であったかがわかります(すべての宗教がパトリア―キー強化型であるとは、私は考えていません)。統一教会の実態については専門家の議論にゆだねますが、ジェンダー論的にみた場合、統一教会の作り出してきた組織内秩序の本質は、パトリアークたる文鮮明氏の「王国」を維持・拡大するため、一般家庭から財物と労働力、女性と子どもを奪い取り、獲得したメンバーを特定の思想(信仰)によって洗脳・画一化し、主体性を取り除き、「資源」として限界まで使い倒すものだった、とみることができそうです。
統一教会のこのような恐るべき特徴は、極端な家父長主義、すなわちウルトラ・パトリアーキズム(超家父長主義)――丸山眞男の日本ファシズム論「超国家主義の論理と心理」にならってこのように造語しますが、すでにどなたかが同じ表現を使っているかもしれません――という言葉で表現することができるかもしれません。
そしてこのウルトラ・パトリアーキズムですが、統一教会ほど異様には見えなくとも、現在の自民党政治において、制度や法律を通じた間接的形で、そのサインがさまざまに現れつつあるように思います。もちろん全国の自民党員の中には、心ある堅実な方々もおられます。しかし「パトリアークたる文鮮明氏の「王国」を」から始まる上記文章の「文鮮明氏」という部分を、「自民党長老および彼らと癒着している官僚、大企業経営陣」に置き換えてみると、どうでしょうか。
この点に関連しますが、宗教の問題をフェミニズムやジェンダーの問題と社会学的に接続した『妊娠と出産をめぐるスピリチュアリティ』の著者・橋迫瑞穂先生は、7月10日のツイートでこう述べています。
パトリア―キーはLGBTQを非常に差別します。それはおそらく、男女の役割をステレオタイプな形で固定化したほうが、パトリアークの「王国」を効率的に維持・拡大できるからです。ステレオタイプな性別役割分担は、子どもを大量に産ませ、また人々の行動をコントロールする上で大変役に立ちます。そのことを橋迫先生は「コスパの良い秩序」と呼んでおられるのだと思います。それゆえLGBTQの置かれている境遇は、パトリアークの権力拡大のみが重視されている社会か否かを測る指標になります。
「家族」に関してのみ、個人的見解を一点付しておきますと、私は「家族」を全否定する立場をとりません。個人はどうあっても弱く、人間は群れを形成して生きる動物なので、共同体を全否定するのではなく、人権が守られる共同体を構想する必要があると考えます(清水晶子『フェミニズムってなんですか?』の第16章「誰も完全には自立していない――オルタナティブな「家族」のあり方と依存の受容」もご参照ください)。なので、橋迫先生が批判されている「家族」とは、パトリアークが女性や子どもを「資源」「所有物」として支配する場としての「家族」であると理解したいと思います。
それはともかく、橋迫先生のように、統一教会、自民党政治、パトリア―キーのつながりを問題視する論者は、マスメディアには少ないようです。その理由について、文化人類学などを専門とし、モンタナ州立大学に勤めておられる山口智美先生は、7月17日にこうツイートしています。
この山口先生のツイートに対して、橋迫先生は次のように応じています。
また橋迫先生は、日本の宗教学の雰囲気について以下のようにもコメントしています。
つまりは、現代宗教をめぐるアカデミズムには男性中心主義的傾向が強く、フェミニズム的・ジェンダー論的議論が無視されがちであり、それゆえ統一教会と自民党政治の共通項であるパトリア―キーの問題が深掘りされずにいる、とのことのようです。
ジェンダー論的視点からすると、一般男性が当然視している権利の中に「パトリアークになること」が含まれている限り、それは容易に、現在の日本の権威主義的独裁政治や、より世俗的な形をとるパトリア―キー強化型宗教と接続してしまうのではないかという懸念が浮上してきます。たとえば維新の支持層である「勝ち組」・中堅サラリーマンに、すでにその傾向がみられます(冨田宏治先生の論文をご参照ください)。「勝ち組」・中堅サラリーマンは小型のパトリアークです。彼らも実際には「大型のパトリアーク」(国家や大企業の支配層)によって搾取されているのですが、自身をいっぱしのパトリアークであると考えているためか、「大型のパトリアーク」とみずからを同一視することを好み、現在手にしているパトリアークの地位を、弱者切り捨てによって今後も維持できると踏んでいます。その結果、小型のパトリアークたちは権威主義的独裁政治との共犯関係に陥ります。おそらく彼らは、ここからさらに、みずからを害するものであるはずのウルトラ・パトリアーキズムを下支えする勢力へと転じていくことになるでしょう。
冷静に考えれば、ウルトラ・パトリアーキズムは庶民の生活を破壊し、ファシズムや全体主義を招き寄せるものです。多様な人材が主体的に活躍する場を奪いとり、大多数の国民を一部の支配層に隷従させ、庶民の「資源」が過酷に吸い上げられていく状況を放置、温存、強化します。その先に待つのは近代国家としての日本の滅亡です。
ウルトラ・パトリアーキズムの対極にあるのは、ジェンダー論的要請に応えうるような、基本的人権に基づく政治です。基本的人権を認めると、パトリアークは下々の者のいうことに真剣に向き合わなくてはならなくなり、パトリアークとしての権力や権威が縮小します。古代や中世であれば、パトリアークの権利や権威が縮小すると戦争が起きたかもしれません。しかし現代日本には、強大な治安維持機構や福祉制度をもつ国家が存在します。この条件下では、パトリアークの権力や権威はむしろ縮小させ、個々の成員が自由に活動できる場を確保したほうが、日本社会にとってプラスになるはずなのです。
心ある男性の皆さんには、ぜひこのような視点からも、ジェンダー論的議論への接近をお願いしたいと思う次第です。
ゆっくり考える(ハンドルネーム)
東京郊外育ち。SAMEJIMA TIMESの一読者。研究・教育業界の片隅で日本を眺めています。気になった問題をゆっくり考えます。縁あってSAMEJIMA TIMESに寄稿する機会を頂くことになりました。