祖母、祖父、伯母、母親の4人を介護したKさんが、祖母の介護を始めたのは23歳の時だった。祖父母に育てられたKさんは、自分が介護をするのは自然な気持ちだったと話す。祖母の介護が23歳の時に始まり、母親が旅立つ64歳の時まで、Kさんは断続的に介護生活を送った。
前編では、祖母と祖父の介護についてのインタビューを行なった。聞き手は、橘 世理。
1 おばあちゃんの介護の始まり
Kさんの祖母は1909年(明治42)、北海道静内町生まれ、家は網元。優しい継母に育てられた。結核にかかった際に隣人でもあった牧師に励まされ、その後、洗礼を受けてプロテスタントになった。家族の事情から北海道よりKさんの住む東京へ夫(Kさんの祖父)と共に移った。
橘「いくつくらいの時に介護を始めましたか」
K「おばあちゃんが、73歳か74の頃にだんだん脚が弱くなって、買い物へ行ったり、食事を作ってあげたりした。僕が23歳の頃。75歳くらいから急激に脚が弱くなって歩けなくなってきた。その時から介護を始めた。今の75歳はまだ若いけど、当時の75は、立派なお年寄り。ベッドがなかったから布団を畳の上に敷いていた。トイレにも這って行くようになってしまったから、見ていて辛かった」
※Kさんの祖母75歳が歩行困難になってきた1984年(昭和59)当時、現代のように「介護」の概念はなく、介護サービスもなかった。
K「おばあちゃんを見て思ったのは、人間が歳をとると色んなところが衰えてくるんだということ。自分の身に起きたことじゃないけど、それまで元気だったおばあちゃんが歩けなくなっていく姿を見てびっくりした。どうしていいかわからなかったけど、とにかく寄り添わなきゃいけない。育ててもらったから、親だと思ってたからね」
※Kさんの親は祖父母とは別のところに住んでいたので、Kさんが祖父母の家に行き、買い物をするなどしていたため、自然とKさんが介護をすることなっていった。
K「母親や伯母にはおかしいよ、歩けなくなってきてる、買い物も行けないよってさんざん言ったんだよ。でも僕が毎日行っているという安心感があるものだから、その深刻さには正面から向き合うことがなかった」

Kさんの祖父母
2 手探りだったおばあちゃんの介護は後手後手に
橘「歩けなくってきてからどのような事をしましたか」
K「家の中にあちこち手すりを付けた。トイレは和式だったから、自分でベニヤ板で椅子みたいなものを作って洋式トイレみたいにした。大きなゴミ袋を切って内側に付けてトイレに流すようにした。当時は、介護用品は身近に売ってなかったしね」
橘「ベッドは買ったのですか、作ったのですか」
K「作ったよ。買おうと思ったけれど、売っているものはおばあちゃんの体には合わなくて、少し低過ぎたのよ。立ったり座ったりするにはもうちょっと高い方が良いと思った。だから酒屋さんに行って木箱を8個くらいもらってきて、それから材木屋でコンパネを買ってそれを木箱に打ち付けて、おばあちゃんが立ちやすい高さのベッドにした」
橘「お風呂はどうしていましたか」
K「おばあちゃん達が住んでいたアパートにはお風呂がなかった。歩けなくなってからは銭湯にも行けない。一緒に連れて行くわけにもいかないしね。だから、子ども用のビニール・プールを買ってきて、そこにお湯を張って入れてあげた。病院に行く前日には髪も洗ってあげてね。気持ち良いって喜んでくれた」
橘「家には冷暖房器具はありましたか」
K「僕が介護を始めて数年経った頃、伯母がやっと深刻さに気づいて、クーラーを買ってくれた。今みたいな室外機型じゃなくて、ウインドウに付けるタイプだった。介護で充実させなきゃいけないのは、排泄、入浴、食事、睡眠だからね。その睡眠がやっと確保できた」
K「食事は、おばあちゃんが喜ぶ物を考えて作っていた。当時は、高齢者にはたんぱく質が必要だなんて何も知らないからね。とにかく柔らかい物、食べやすい物を作ろうと、図書館で料理本を借りて見よう見真似で料理を覚えた」
橘「歩行困難でしたが、通院はどうしていましたか」
K「当時は車も持っていなかったから、台車にパイプ椅子を紐で括り付けて車椅子代わりにしてみた。後でわかったことだけど、車椅子を区役所で借りられたんだよね。行政が高齢者支援してるなんて何も知らなかった。当時は、介護という概念もないし介護のやり方もわからなかった。何もかもわからないまま手探りでやっていた」
橘「区役所の福祉課に行かなかったのですか」
K「最初の数年は、そういう発想も出なかった。昨日歩けたのにもう歩けないの?もうトイレも行かれなくなったの?手が麻痺している?え、どうしたの?どうするの?おばあちゃんの状態が悪くなる度に慌てて何かをしていた。すべて後手後手になってしまっていた」
※Kさんが、台車にパイプ椅子を括り付け、祖母を座らせて病院へ向かっている時、たまたま民生委員がKさんたちを見かけ声をかけてくれた。その時に、区役所で車椅子が借りられ、ほかにもオムツなどの支援が受けられる事を知った。祖母の介護を始めて2年目のことだった。それまでの2年間は、支援を知らず自己流で介護をしていた。
3 入院したので助かった
橘「介護は重くなったのですか」
K「76歳か77歳のときに、肺炎になって、往診に来てくれた医師がすぐに救急病院を紹介して入院した。当時、病院は今よりも長くいられて79歳で亡くなるまでの3年間入院させてもらえた。でも途中で何度か退院勧告は受けたけど、世話をするのは自分しかいないし、一緒に住んでないし、自宅へ連れ帰るのは無理ですと訴えた。おむつなどは区から支援を受けた。当時は、介護サービスもないしシステムも違うから、家政婦協会から家政婦さんが来ておむつ交換をしてくれたり、色々やってくれた」
※Kさんは、祖母の入院によって、手探りだった介護生活から離れることはできた。
K「子どもの頃から育ててもらったという恩返しの思いもあった。おばあちゃんに、すっきりしたとか、さっぱりしたとか、美味しいとか、そういうことを言ってもらって喜びを感じてた。ただ、犠牲も多くて、そういう事をやればやるほど自分の時間も奪われていった。サラリーマンみたいな働き方では介護活動はできなかった。だから時間に拘束されない仕事を選ぶしかなかったよ。文章を執筆するとか、製品をデザインするとか、そういう形でしか仕事を選べなかった。そういう仕事に就いたから介護ができたとも言える」
4 おじいちゃんの様子もおかしくなっていった
K「おばあちゃんが入院した頃から、おじいちゃんの様子がおかしくなっていった。おばあちゃんは、体が衰弱して足腰が弱っていったけど、おじいちゃんは、徐々に反応が鈍くなっていった。後日わかった事だけど、脳梗塞だった。そんな事知らないから、声をかけても通じない、表情がないとこっちも苛立ってつい大声を出して呼びかけたり、しゃきっとさせようと体操をさせようとしたりして、無理なこともしちゃったんだよ。当時、何も知らなかったから。それは申し訳ないと思っている」
※当時(1980年代)、CTスキャンは大規模病院にしかなかった。Kさんの祖父は、大きな病院に入院した際に、CTスキャンにて脳梗塞の跡がいくつか有ると判った。Kさんは、20代後半。
5 おじいちゃんの介護ではコミュニケーションが成立しない恐さがあった
K「おじいちゃんとは、子どもの頃よりも大人の会話ができるようになっていた。先祖がどうのとか、子どもの頃はどうだったとか、色々な話をしたよ。そういうコミュニケーションが成立していたのに、次第にコミュニケーションが取れなくなっていったんだ。反応がなくなっていくのがとにかく恐かった。おばあちゃんとは会話が成り立っていた。でもおじいちゃんは違った。脳梗塞の影響だったのが後日判ったけど、その頃は原因は全く判らなかったからね」
橘「おじいちゃんの介護にシフトしたのですか」
K「そう。おばあちゃんが入院したから。おじいちゃんの食事を三食作った。食べるんだけど食べ方が変で、箸を使わずに手で食べてしまったり、食べ物の好き嫌いはなかったはずなのに好きな物しか食べなかったり、好き嫌いのムラが随分と出てしまった。おかずだけ食べてご飯を食べなかったり、ご飯だけしか食べずにおかずを残したり、あれ変だなと思った。これも後でわかったけど脳梗塞に因るものだった」
K「救いだったのは、おじいちゃんとおばあちゃんとも心の奥底での交流はできた。話しかければなんとか応えてくれたんだ。脳梗塞だったおじいちゃんは、後には会話ができるようになった。当時、僕が住んでたアパートに連れて行って一緒にご飯を食べたり、お風呂に入れてあげたりした。おばあちゃんより色々な事をしてあげられた。おばあちゃんのときは何もわからなくて後手後手に回ったけど、おじいちゃんのときは先回りして、ここにひとりで置いておいたらダメだと思った。おばあちゃんの時に学習したことを多少なりともいかせたのかな」
※祖母が亡くなる1年ほど前に祖父は特別養護老人ホームへ入所した。
6 相手は人間なんだ
橘「介護をしている中で心に思い続けていたものはありますか」
K「おじいちゃん、おばあちゃんの介護のとき、肝に銘じたのは、相手は人間なんだってこと。動物のように扱ったり、物のように扱ったり、絶対そういうことはしちゃダメだと思ってた。なるべく普通の会話、心の交流ができるようにすることに気をつけていた。それを忘れると物扱いしちゃうんだよ。苦しいことの連続だし、汚い事や臭い事もしなきゃいけないから」
橘「立派だと思います」
K「そんなことはない。20代の若者が介護してるんだよ、余裕なんかない。余裕はなかったけど、おじいちゃん、おばあちゃんはユーモアもあったし、優しかったし、そんな二人の人柄に随分と救われた」
K「おじいちゃん、おばあちゃんと一緒に老化という怪物と闘ってる気持ちがあった。老化は、化け物だよ。僕も頑張った。おじいちゃん、おばあちゃんも頑張った」
K「おばあちゃんは、亡くなる2週間前に昏睡状態だったのに突然目を開けてくれて、もうサヨナラだ、ありがとうと言ってくれた。おじいちゃんは、老人ホームで脳梗塞から復活して、ありがとう、世話になったな、と言ってくれた。二人とは最後まで心の交流が出来たと思っている」
今回は、Kさんが23歳から祖母、祖父を介護し、祖父が亡くなるまでの話を聞いた。記事にできなかった話は、今後、続いていく号の中で少しずつ紹介していきたい。
写真:橘 世理

橘 世理(たちばなせり)
神奈川県生まれ。東京農業大学短期大学部醸造科卒。職業ライター。日本動物児童文学賞優秀賞受賞。児童書、児童向け学習書の執筆。女性誌、在日外国人向けの生活雑誌の取材記事、記事広告の執筆。福祉の分野では介護士として高齢者施設に勤務。高齢者向け公共施設にて施設管理、生活相談を行なう。父親の看護・介護は38年間に及んだ。