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「野党は批判ばかり」という批判に怯えて野党合同ヒアリングを見直す立憲民主党は「マスコミは批判ばかり」に怯えて権力批判を控える朝日新聞と瓜二つ

野党が国会審議とは別に中央省庁の官僚を集めて政権追及の舞台としてきた野党合同ヒアリングについて、立憲民主党が見直し作業を進めている。

泉健太代表は代表選で「(各省庁の担当官僚を)詰問するスタイルは見直しが必要だ」と主張。これを受けて馬淵澄夫国対委員長は「これから検証しながら、どういう形をつくるか相談したい」と述べ、野党議員が官僚を厳しく追及する現在のあり方を見直す姿勢を示している。

この背景には「野党は批判ばかり」という批判を意識し、「批判型野党」から「提案型野党」へ衣替えしたいという泉代表らの方針があるようだ。国民民主党の玉木雄一郎代表が重視する「提案型政党」と重なり合う部分も多く、立憲民主党・国民民主党・連合の3者の連携強化を見据えた動きともいえそうだ。

これに対し、共産党の田村智子政策委員長は「ヒアリングは有効だ。やり方に工夫や反省点があれば改善していけばよい」と主張。衆院選で落選した立憲民主党の辻元清美氏も「国会の開会要求をしても(政権が)開かない。(野党合同ヒアリングを)『やめる』なんて言ったらあかん。あったほうがいい」と述べている。

この問題は「野党の役割とは何か」という根源的な問題に加え、野党共闘の行方も左右する政治テーマとなるだろう。

若い世代を中心に「野党は批判ばかり」との批判が広がり、野党離れを加速させているという指摘は多い。野党議員のなかでも泉代表をはじめ「批判ばかり」と批判されることを避けようという動きが急速に広がっている。

しかし野党合同ヒアリングが定着した背景には、野党が憲法に基づいて要求した国会開会要求を政府与党が黙殺し、国会を開いてこなかったという経緯がある。さらには閣僚や官僚が安倍政権下の数々の権力私物化疑惑について虚偽答弁を重ね、説明責任を果たしてこなかったという事実がある。政権与党が誠実な国会対応を怠った結果として、場外戦である野党合同ヒアリングが国会審議を代用する「権力監視」の舞台として活用されてきた経緯を忘れてはならない。

野党第一党として政権交代をめざす以上、自分たちが政権を担った場合の社会像について「提案」することはもちろん不可欠だ。しかし、政権与党を監視することは国会(特に野党)の重要な責務である。野党第一党が自らの重要な役割を胸を張って果たそうとせず、その責務を放棄しようとしているのは、情けない限りである。

これは大手マスコミの姿勢と酷似している。私が27年間所属した朝日新聞社内でも、第二次安倍政権が発足した2012年以降、政権与党やその支持者らが旗を振った「マスコミは批判ばかり」との批判に怯え、「提案型報道をめざすべきだ」という意見が飛び交うようになった。編集幹部が「権力監視と権力批判は違う」と公然と口にし、権力批判型の報道を試みる現場の記者たちを牽制するようになったのだ。

野党第一党の立憲民主党とリベラルを標榜する朝日新聞。「批判ばかり」と批判されることに怯えるその姿は瓜二つである。

たしかに若い世代には「野党やマスコミは批判ばかり」という声が強い。それに耳を傾けることは必要だろう。ただしその背景には「野党やマスコミは批判ばかり」というイメージをつくりあげた政権与党のネット戦略がある。立憲民主党や朝日新聞が政権与党のネット戦略に屈して自ら批判姿勢を弱めているのは「不戦敗」や「自滅」としか私には思えない。

野党やマスコミは「なぜ批判するのか」をもっと根本的にアピールすることが必要だ。いまの野党やマスコミには「批判」の大切さを伝える覚悟や努力が圧倒的に不足している。「批判ばかり」という世論に迎合して自ら批判姿勢を弱めるようでは、いったい何のために政治家や記者になったのか。自分たちの存在意義を自己否定する事態である。

まず確認しておかなければならないのは、ここで問われている「批判」はあくまでも「権力に対する批判」であるということだ。誰彼構わず批判することではない。国家権力中枢の近くに身を置くものほど、社会の厳しい批判にさらされなければ民主主義は成り立たないのだ。

だから若者に対して「批判」の重要性を説くには、まずは「権力とは何か」を説明しなければならない。

権力とは、ひとりひとりの権利や自由を合法的に奪うことができるものであり、権力が暴走すればあなた自身の権利や自由がルールにのっとって公然と奪われる恐れがあるという極めて危険なものであるということを、まずは説かねばならない。

あなたがどんなに無実を主張してもあなたを逮捕することができるもの、あなたがどんなに嫌がってもあなたを戦地へ送りこむことができるもの、あなたがどんなに貧しくてもあなたから税金を取り立てることができるもの、それが権力なのだ。その恐ろしさは人類の長い歴史がいくらでも証明している。それを知るために、世界史や日本史を学ぶのだ。

私たちは権力の暴走を防がなければならない。防ごうと思っても、強大な権力の前に立ちはだかるのは至難の業だ。だからこそ、権力が強大化しないように、権力を縛るさまざまなルールを定めているのが憲法である。どんな権力者も憲法によってその権限を縛られている。それを「立憲主義」という。権力の暴走によって戦争や虐殺が繰り返された苦難の歴史から人類が学んだ知恵だ。

具体的には国家権力が集中しないように、国会、内閣、裁判所の3権に権力を分散させている。さらに国家権力を外から監視する役割を担うジャーナリズムを守るため「表現の自由」が保障されている(ジャーナリズムを担ってきたマスコミは第四の権力と呼ばれた)。それでも現実世界では内閣(内閣総理大臣)の力が強くなる。安倍晋三首相が自らの友達を次々に特別扱いし、それらを隠蔽するために官僚が国会で虚偽答弁を重ね、公文書を改竄してもなお、安倍氏が首相の座に君臨し続けたのは、国会、裁判所、マスコミの権力監視機能が弱っている証拠であろう。

国会は「国権の最高機関」と憲法で定められている。国会の主な役割は①法律をつくること②内閣総理大臣を指名すること③内閣を監視することーーの三つだ。議院内閣制において与党は内閣を支える立場にあり、③の「内閣の監視」は主に野党の役割である。野党が弱いと「内閣監視機能」が弱くなる。

第二次安倍政権の発足以降、野党は国政選挙で敗北を続け、衆参両院の議席で与党に大きく水を空けられた。国会審議の時間や審議進行役の委員長ポストは与党が主導して決めるため、野党は国会の場でさまざまな疑惑を十分に追及する力が足りなかった。この反省から生み出されたのが、国会審議とは別に野党が中央省庁の官僚を集めてさまざまな疑惑について追及する「野党合同ヒアリング」であった。

野党に国会質疑の時間が十分に与えられ、閣僚や官僚がはぐらかさず、うそをつかず、誠実に答弁するならば、野党合同ヒアリングは不要であろう。しかし、ここ数年の閣僚や官僚は虚偽答弁を重ね、誠実に答えず、疑惑を誤魔化し、隠蔽を続け、憲法の規定を無視して国会開会を拒否してきた。その結果、やむに止まれず「野党合同ヒアリング」という手法が生み出された経緯を、立憲民主党は国民に対し丁寧に説明することが必要であろう。

その際に、根本論である「野党の役割とは何か」「国会の役割とは何か」もいちから丁寧に説明しなければならない。野党やマスコミが国家権力を監視し、追及し、批判しなければ、国家権力は暴走し、最後は国民一人一人の権利や自由が奪われる恐れがあることを、数々の人類の苦難の歴史に触れつつ丁寧に説かねばならない。「批判ばかり」の世論に迎合することなく、「批判の大切さ」を世論に訴え説得することこそ、国会議員の重要な職務であろう。

さいごにつけくわえるならば、「野党の役割とは何か」「国会の役割とは何か」を先頭にたって説明するのがマスコミの本来の役割である。民主国家における野党や国会の役割を解説することは、野党に加担することではない。それを怠って「野党は批判ばかり」と批判し、さらには自分たちも国家権力への批判に及び腰になる現在のマスコミの態度は、もはやジャーナリズムと呼ぶに値しないものである。

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