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論破王ひろゆきが沖縄で仕掛けた「座り込みの定義」論争が照らし出す「政治の本当の役割」とは?

テレビコメンテーターとして「論破王」と持て囃されている西村博之氏(通称ひろゆき)が10月3日、米軍基地建設が進む沖縄・辺野古のゲート前を訪れ、「座り込み抗議3011日」と書かれた看板の横で笑顔を浮かべる自らの画像とともに「座り込み抗議が誰も居なかったので、0日にした方がよくない?」とツイートした。

彼の発信をめぐってメディアやSNSで賛否両論がぶつかりあっている。(以下の琉球放送参照)

米軍基地建設への賛否はさておき、国家権力を批判・抗議する言動を嘲笑的に蔑む風潮が安倍政権以降の日本社会にネットだけではなくテレビを通じて急速に広まったことは、この国の民主主義の劣化・歪みを象徴する現象である。嘲笑的態度が権力者に向けられているのならまだしも、権力に向かって批判の声をあげる市民に向かって浴びせられている点はとりわけ深刻だ。

権力者の側に立って弱い立場の人々を嘲笑う態度は不誠実極まりない。「勝ち馬に乗って負け組を見下したい」という狭量な態度がまかり通り、権力に立ち向かう人々を権力の威を借りて冷笑する姿は、プライドを維持する国力と余裕を失った現代日本の歪みを象徴している。

権力者の責任と一般市民のそれを同一視してむしろ一般市民に冷徹な批判を浴びせる姿勢は「権力とは何か」という民主社会の核心的な理念を置き去りにするものだ。ネット上の無名アカウントにとどまらず、そのように振る舞う自称「言論人」「有識者」「インフルエンサー」らがマスメディアで幅を効かせているのは、相当に不健全な世の中である。

ひろゆき氏の一連の言動のなかでとりわけ衝撃的だったのは、「座り込み」の定義をめぐって当事者たちを挑発する「ことばの遊戯」のような論争を仕掛けた以下の映像だった。

ひろゆき氏は辞書に基づいて「座り込み」とは「その場に座り込んで動かないこと」と定義する。辺野古ゲート前を一時的にも離れたら「動かないこと」とは言えず、それは「座り込み」に該当しないと主張するのだ。

それに対して「座り込み」の当事者は「24時間してないと座り込みと言わない定義はどこにあるのか」と反論。このやりとりは「座り込みの定義」論争として世間の注目を集めた。

座り込みと呼ばれる政治的な抗議行動を「24時間動かずに座っていること」に限定して使うという慣行は、政界や報道界にはない。ひろゆき氏の仕掛けた論争は、極めて不誠実な「ことばの遊戯」としかいいようがなく、真面目に取り上げるほどのものではないと思う(もっともそれを真面目に取り上げる風潮が広がっていることが今の日本社会の歪みを映し出しているのだが)。

以上の前提で取り上げるのだが、ひろゆき氏が固執した「辞書に書いてある定義」というのは、政治論争のあり方について考察を深めるにあたり、反面教師的に興味深い。

きょうはすこし脱線して、政治論争における「ことばの役割」について考えてみよう。

以下は国語辞典編纂者の飯間浩明さんのツイートである。まずはこれをご覧いただきたい。

ここで引用されている「国語辞典はことばの意味を記述しますが、定義はしません」というくだりに、私はとても共感した。

ことばの意味は時代と共に変遷していく。ことばは生き物なのだ。「正しい日本語」や「厳密な定義」で縛ると、現実社会で使われている「生きたことば」からどんどん離れてしまうだろう。

一方で、人がそれぞれ「ことば」に抱く印象は微妙に違っている。だから「ことばの定義」をあいまいにしたまま議論すると、たいがいの場合は認識にすれ違いが生じて、不毛な論争に終始してしまう。ことばの意味をしっかり定義したうえで議論しないと噛み合わないーーというのは一面の真理だろう。

とりわけ学問の世界では「ことばの定義」は重要だ。学問は論理性を研ぎ澄ませ、真理に近づくこと自体を目的にしているからである。理系も文系も変わりはない。

現実世界において「ことばの定義」を最も重視するひとつは司法の世界だ。刑事裁判で有罪か無罪か、あるいは民事裁判でどちらの訴えを認めるか。白黒の判断を下す第一の根拠となるのは法と判例の解釈であり、ひとつひとつのことばの定義(法学部生なら誰もが学ぶ「善意・悪意」「債権・債務」「瑕疵」などの定義があいまいなら法律論争は成り立たない)を明確にしなければ、法的な一貫性を保てず、世の中の「法的基準」が消滅し、社会は一気に混乱してしまう。

だが、政治の世界は違う。民主社会における政治の究極の目的は「真理の追求」や「論理の一貫性」にあるのではなく、「社会の合意形成」にあるからだ。国民の多くを納得させたうえで物事を決めていくことに政治の本質的な役割があるといってよい。

ここで重要なのは、「真理」や「論理」で国民の多くが納得するとは限らないということである。人の意思は感情や損得、歴史、文化などを抜きには成り立たない。すべてをひっくるめて、人々を結果的に納得させる社会的技術が、政治には不可欠なのである。

もちろん「真理」や「論理」は重要だ。感情や損得だけでは世の中は危うい方向へ独走しかねない。だからこそ立憲主義という考え方に基づいて、権力者の言動を憲法という「ルール」や「論理」で縛っている。

とはいえ、立憲主義だけでは民主社会は成り立たない。多数決を重んじる民主主義は立憲主義の対立概念でもある。多数決から少数派の人権を守ることが立憲主義の最大の意義なのだ。そのうえで、民主社会では国民の多くの感情や損得を考慮し、なるべく多くの納得を得る努力が絶対に欠かせない。

ことばの定義を厳密にし、相手の矛盾を突いて「論破」したところで、決して共感は得られないし、合意形成は進まない。まして「論破」の仕方が「ことばの遊戯」でしかないのなら、相手の反感を膨らませて社会は分断を深めるばかりである。国家権力側がそのような態度をとるのは、もってのほかである。

政治論争における「ことば」の最大の役割は、相手をやり込めて白黒をはっきりつけることではなく、双方の違いを乗り越えて接点をみつけることにある。

それぞれの人はさまざまなことばに対してまちまちのイメージを持っている。それぞれのことばには多様な感情が投影されることも少なくない。多くの人々に開かれた政治論争は「ことばの定義」に幅を持たせたまま、ことばをぶつけあうしかない。論理だけでは割り切れない世界なのだ。

だからこそ、政治論争上のことばは多様な意味を持たざるを得ない。「定義」で縛り上げたら、政治家が国民に語りかけることばは力を失ってしまうだろう。むしろできるだけ多くの人が共感・共有できることばを見つけ出すことが重要になる。現実世界のなかで「生きていることば」「移ろっていくことば」を駆使するのである。どのことばをどう使うかが、政治論争を決するのだ。

私は政治記者として長く永田町を取材してきたが、さまざまな政局の場面でしばしば感じてきたのは、弁護士出身で大成する政治家は極めて少ないということだった(あえて具体名は出さないが、何人かの政治家を思い浮かべる読者も多いのではないだろうか)。弁護士出身の政治家はどうしても法曹界でしか共有されていない「ことばの定義」にこだわり、理屈をこね回す傾向がある。難関の司法試験を突破したというプライドやエリート意識が邪魔をしているのだろう。それではみんなの気持ちを引き寄せるのは難しい。

私も法学部出身なので彼らの気持ちはわからないでもないのだが、政治の世界においてはことばの定義にこだわるほど多くの人々の共感から遠ざかり、合意形成が難しくなる。そのようなタイプの政治家は、リーダーには向いていない。最後は意見の相違を乗り越えて、みんなをつつみこむ包容力がないと、いつまでたっても合意形成は進まない。

「論破王」と持て囃されるひろゆき氏が仕掛けた「座り込み」論争をまのあたりにし、政治の本質は「論破」ではなく「合意形成」にあることを再確認したいという思いに駆られた。

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